「いゝえ。結構でございますの。」
 美奈子は、平素《いつも》に似ず、きつぱりと答へた。その拒絶には、彼女の、芽にして、蹂み躙られた恋の千万無量の恨が、籠つてゐたと云つてもよかつた。
 聡明な瑠璃子には、美奈子の心持が、可なり判つたらしかつた。彼女は、涙がにじんではゐぬかと思はれるほどの、やさしい眸で、美奈子を、ぢつと見詰めながら云つた。
「ねえ! 美奈さん。今晩は、よして呉れない。もう十時ですもの、あした早く入れに行くといゝわ。ねえ美奈さん! いゝでせう。」
 彼女は、美奈子を抱きしめるやうに、掩ひながら、耳許近く、子供でもすかす[#「すかす」に傍点]やうに云つた。
 平素《いつも》なら、母の一言半句にも背かない美奈子であるが、その夜の彼女の心は、妙にこじれ[#「こじれ」に傍点]てゐた。彼女は、黙つて返事をしなかつた。
「何うしても、行くのなら、妾《わたし》も一緒に行くわ。青木さんは、部屋で待つてゐて下さいね。ねえ! 美奈さん、それでいいでせう。」
 さう云ひながら、瑠璃子は早くも、先に立つて歩まうとした。
 美奈子は、一寸進退に窮した。母と一緒に郵便局へ行つても、出すべき手紙がなかつた。それかと云つて、今まで黙つてゐながら、今更行くことをよすとも、言ひ出しかねた。
 その裡に、青年は此の場を避けることが、彼にとつて、一番適当なことだと思つたのだらう。何の挨拶もしないで、建物の中へ入ると、階段を勢よく馳け上つてしまつた。
 母一人になると、美奈子の張り詰めてゐた心は、弛んでしまつて、新しい涙が、頬を伝ひ出したかと思ふと、どんなに止めようとしても止まらなかつた。到頭、しく/\と声を立てゝしまつた。
 美奈子が泣き始めるのを見ると、瑠璃子は、心から駭《おどろ》いたらしかつた。美奈子の身体を抱へながら叫ぶやうに云つた。
「美奈さん! 何うしたの、一体何うしたの。何が悲しいの。貴女一人残して置いて済まなかつたわ。御免なさいね、御免なさいね。」
 青年に対しては、あれほど冷静であつた母が、本当に二十前後の若い女に帰つたやうに、狼狽《うろた》へてゐるのであつた。
「貴女、泣いたりなんかしたら、厭ですわ。今迄貴女の泣き顔は、一度だつて、見たことがないのですもの。妾《わたし》、貴女の泣き顔を見るのが、何よりも辛いわ。一体何うしたの。妾《わたし》が、悪かつたのなら、どんなにでもあやまるわ。ねえ、後生だから、訳を云つて下さいね。」
 さう云つてゐる母の声に、烈しい愛と熱情とが、籠つてゐることを、疑ふことは出来なかつた。

        五

 その夜は、美奈子も強ひて争ひかねて、重い足を返しながら、部屋へ帰つて来た。
 翌日になると、夜が明けるのを待ち兼ねてゐたやうに、美奈子は母に云つた。
「お母様、妾《わたし》葉山へ行つて来ようかと思つてゐるの。兄さんにも、随分会はないから、どんな容子だか、妾《わたし》見て来たいと思ふの。」
 が、母は許さなかつた。美奈子の容子が、何となく気にかゝつてゐるらしかつた。
「もう二三日してから行つて下さいね。それだと、妾《わたし》も一緒に行くかも知れないわ。箱根も妾《わたし》何だか飽き/\して来たから。」
 その日一杯、平素は快活な瑠璃子は、妙に沈んでしまつてゐた。青年には、口一つ利かなかつた。美奈子にも、用事の外は、殆ど口を利かなかつた。たゞ一人、縁側《ヴェランダ》にある籐椅子に、腰を降しながら、一時間も二時間も、石のやうに黙つてゐた。
 瑠璃子の態度が、直ぐ青年に反射してゐた。瑠璃子から、口一つ利かれない青年は、所在なささうに、主人から嫌はれた犬のやうに、部屋の中をウロ/\歩いてゐた。彼のオド/\した眼は、燃ゆるやうな熱を帯びながら、瑠璃子の上に、注がれてゐた。美奈子は、青年の容子に、抑へ切れぬ嫉妬を感じながらも、然し何となく気の毒であつた。犬のやうに、母を追うてゐる、母の一挙一動に悲しんだり欣んだりする青年の容子が、気の毒であつた。
 その日は、事もなく暮れた。平素《いつも》のやうに、夕方の散歩にも行かなかつた。食堂から帰つて来ると三人は気まづく三十分ばかり向ひ合つてゐた後に、銘々自分の寝室に、まだ九時にもならない内に、退いてしまつた。
 翌る日が来ても、瑠璃子の容子は前日と少しも変らなかつた。美奈子には、時々優しい言葉をかけたけれども、青年には一言も言はなかつた。青年の顔に、絶望の色が、段々濃くなつて行つた。彼の眼は、恨めしげに光り初めた。
 到頭、夜が来た。瑠璃子と青年との間に、交された約束の夜が来た。
 美奈子は、夜が近づくに従つて、青年が自分の存在を、どんなに呪つてゐるかも知れないと思ふと部屋にゐることが、何うにも苦痛になつて来た。
 晩餐の食堂から、帰るときに、美奈子は、そつと母達から離れて、自分
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