三
死んだ父母の面影が、浮んで来ると、美奈子は懐しさで、胸がピツタリと閉された。
今の彼女の悲しみと、苦しみを、撫でさすつて呉れる者は、死んだ父母の外には、広い世の中に誰一人ないやうに思はれた。
さう思ふと、亡き父が、あの強い腕《かひな》を差し伸べて、自分を招いてゐて呉れるやうに思はれた。その手は世の人々には、どんなに薄情に働いたかも知れないが、自分に対しては限りない慈愛が含まれてゐた。美奈子は、父の腕が、恋しかつた。父の、その強い腕に抱かれたかつた。さう思ふと、自分一人世の中に取り残されて、悲しく情ない目に会つてゐることが、味気《あぢき》なかつた。
が、それよりも、彼女はこの部屋に止まつてゐて、母と青年とが、何知らぬ顔をして、帰つて来るのを迎へるのに堪へなかつた。何処でもいゝ、山でもいゝ、海でもいゝ、母と青年とのゐないところへ逃れたかつた。彼女は、泣き伏してゐた顔を、上げた。フラ/\と寝台を離れた。浴衣《ゆかた》を脱いで、明石縮の単衣《ひとへ》に換へた。手提を取り上げた。彼女の小さい心は、今狂つてゐた。もう何の思慮も、分別も残つてゐなかつた。たゞ、突き詰めた一途な少女心《をとめごゝろ》が、張り切つてゐた丈《だけ》である。
彼女が、着物を着換へてしまふ間、幸《さひはひ》に母と青年とは帰つて来なかつた。
彼女は、部屋を馳け出さうとしたとき、咄嗟に兄のことを考へた。兄は、白痴の身を、監禁同様に葉山の別荘に閉ぢ込められてゐる。が、他の世間の人々に対しては、愚かなあさましい兄であるが、その愚かさの裡にも、肉親に対する愛だけは、残つてゐる。彼女は、彼女が時々兄を訪ふときに、兄がどんなに嬉しさうな表情をするかを、覚えてゐる。縦令《たとひ》、自分の現在の苦しみや、悲しみを理解し得る兄ではないにしろ、兄の愚かな、然しながら純な態度は、屹度《きつと》自分を慰めて呉れるに違《ちがひ》ない。少くとも、あの愚かな兄|丈《だけ》は、何時行つても屹度、自分に、あの人のよい、愚かしいが然し浄い親愛の情を表して呉れるに違《ちがひ》ない。さう思ふと、美奈子は急に、兄に会ひたくなつた。夜は十時に近かつたがまだ湯本行の電車はあるやうに思つた。もし、横須賀行の汽車に間に合はなかつたら、国府津か小田原かで、一泊してもいゝとさへ思つた。
部屋の扉《ドア》を、そつと開けて、彼女は廊下を窺《うかが》つた。西洋人の少年少女が二人連れ立つて、自分の部屋へ、帰つて行くらしいのを除いた外には人影はなかつた。
彼女は、廊下を左へ取つた。その廊下を突き当つて左へ降りると、ホテルの玄関を通らないで、広場へ出ることを知つてゐた。
彼女は、廊下を馳け過ぎた。階段を、一気に馳け降りた。そして、階段の突き当りにある、扉《ドア》を押し開いて、夜の戸外へ、走り出ようとした。
が、その扉《ドア》を押し開いた刹那であつた。
「おや!」戸外に、叫ぶ声がした。戸外からも、扉《ドア》を開けようとした人が、思はず内部から開いたので、駭《おどろ》いて発した声だつた。美奈子は、直ぐ、さう叫んだ人と、顔を面して立たなければならなかつた。それは、正《まさ》しく母だつた。母の後に、寄り添ふやうに立つてゐるのは、もとより彼の青年だつた。
「美奈さんぢやないの!」
母は、可なり駭いてゐた。狼狽してゐたと云つてもよかつた。美奈子は、全身の血が、凍つてしまつたやうに、ぢつと身体を縮ませながら、立つてゐた。
「何うしたの? こんなに遅く?」
青年との会話には、あんな冷静を保つてゐた母が、別人ではないかと思ふほど、色を変へてゐた。
美奈子が、黙つてゐると、母は益々気遣はしげに云つた。
「一体|何《ど》うしたの。こんなに遅く、着物を着換へて、手提なんか持つて。」
四
母に問ひ詰められて、美奈子は、漸くその重い唇を開いた。
「あの、手紙を出しに、郵便局まで行かうと思つてゐましたの。」
彼女は、生れて最初の嘘を、ついてしまつた。彼女の、蒼い顫ひを帯びた顔色を見れば、誰が彼女が郵便局へ行くことを、信ずることが出来よう。
「郵便局!」瑠璃子は、反射的にさう繰返したが、その美しい眉は、深い憂慮のために、暗くなつてしまつた。「こんなに遅く郵便局へ!」
瑠璃子は、呟くやうに云つた。が、それは美奈子を咎めてゐると云ふよりも、自分自身を咎めてゐるやうな声だつた。
母子《おやこ》の間に、暫らくは沈黙が在つた。美奈子は、屠所に引かれた羊のやうに、たゞ黙つて立つてゐる外は、何うすることも出来なかつた。
「郵便局! 郵便局なら、僕が行つて来て上げませう。」
母の後に立つてゐた青年は、此の沈黙を救はうとしてさう云つた。
美奈子は、一寸狼狽した。託すべき手紙などは持つてゐなかつたからである。
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