不誠意な、薄情な態度を悲しむ心も交つてゐた。どの一つの感情でも、彼女の心を底から覆へすのに十分だつた。
その上、他人の秘密、他人《ひと》の一生懸命な秘密を、窃み聴きしてゐることが、一番彼女の心を苦しめた。彼女は、もう一刻も、坐つてゐることが出来なかつた。その椅子《ベンチ》が針の蓆か、何かでもあるやうに、幾度も腰を上げようとした。が、距離は、わづかに二間位しかない。草を踏む音でも聞えるかも知れない。殊に樹木の蔭を離れると、如何なる機《はづ》みで母達の眼に触れるかも知れない。母達が、自分がゐたことに気が付いたときの、駭きと当惑とを思ふと、美奈子の立ち上らうとする足は、そのまゝすくん[#「すくん」に傍点]でしまふのだつた。
美奈子が、退つ引きならぬ境遇に苦しんでゐることを、夢にも知らない瑠璃子は、前のやうに落着いた声で静《しづか》に云つた。
「だから、解つてゐると云つてゐるのぢやないの。貴君のお心は、よく解つてゐると云つてゐるのぢやないの。」
青年の声は、前よりももつと迫つてゐた。
「本当ですか。本当ですか。本心でさう仰《おつ》しやつてゐるのですか。まさか、口先|丈《だけ》で云つていらつしやるのぢやありますまいね。」
青年が、さう訊き詰めても母は、黙つてゐた。青年は、愈々焦つた。
「本心ならば、証拠を見せて下さい。貴女のお言葉|丈《だ》けは、もう幾度聴いたか分らない。貴女は、それと同じやうな言葉を、僕に幾度繰返したか分らない。僕は言葉|丈《だけ》ではなく、証拠を見せて貰ひたいのです。本心ならば、本心らしい証拠を見せていたゞきたいのです。」
青年が、焦《あせ》つても激しても、動かない母だつた。
「証拠なんて! 妾《わたくし》の言葉を信じて下さらなければ、それまでよ。お女郎ぢやあるまいし、まさか、起請《きしやう》を書くわけにも行かないぢやないの。」
母の貴婦人《レディ》らしからぬ言葉遣ひが、美奈子の心を傷ましめた。
「証拠と云つて、品物を下さいと云ふのぢやありません。僕が、先日云つたことに、ハツキリと返事をしていたゞきたいのです。たゞ『待つてゐろ』ばかりぢや僕はもう堪らないのです。」
「先日云つたことつて、何?」
母は、相手を益々じらすやうに、しかもなまめ[#「なまめ」に傍点]かしい口調で云つた。
「あれを、お忘れになつたのですか、貴女《あなた》は?」
青年は憤然としたらしかつた。
「あんな重大なことを、僕があんなに一生懸命にお願ひしたのを、貴女はもう忘れて、いらつしやるのですか。ぢや、繰り返してもう一度、申上げませう。瑠璃子さん、貴女は僕と結婚して下さいませんか。」
結婚と云ふ思ひがけない言葉を聴くと、美奈子は、最後の打撃を受けたやうに思つた。青年の母に対する決心が、これほど堅く進んでゐようとは夢にも思つてゐないことだつた。
「あのお話! あれには貴君《あなた》、ハツキリとお答へしてあるぢやないの。」
母は、青年の必死な言葉を軽く受け流すやうに答へた。
「あのお答へには、もう満足出来なくなつたのです。」
母のハツキリとした答へと云ふのは、どんな内容だらうと思ふと、美奈子は悪い/\と思ひながらぢつと耳を澄まさずにはゐられなかつた。
七
「あんなお答には、僕はもう満足出来なくなつたのです。あんな生ぬるいお答には、もう満足出来なくなつたのです。貴女《あなた》は、美奈子さんが、結婚してしまふまで、この返事は待つて呉れと仰《おつ》しやる。が、貴女のお心|丈《だけ》をお定《き》めになるのなら、美奈子さんの結婚などは、何の関係もないことではありませんか。僕に約束をして下さつて、たゞ、時期を待てと仰しやるのなら僕は何時までも待ちます。五年でも十年でも、二十年でも、否生涯待ち続けても僕は悔いないつもりです。貴女《あなた》のはたゞ『返事を待て』と仰《おつ》しやるのです、お返事|丈《だけ》ならば、美奈子さんが結婚しようがしまいが、それとは少しも関係なしに、貴女のお心一つで、何うともお定《き》めになることが、出来ることぢやありませんか。僕に約束さへして下されば、僕は欣んで五年でも七年でも待つてゐる積りです。」
青年の声は、だん/\低くなつて来た。が、その声に含まれてゐる熱情は、だん/\高くなつて行くらしかつた。しんみりとした調子の中に、人の心に触れる力が籠つてゐた。自分の名が、青年の口に上る度に、美奈子は胸をとゞろかせながら、息を潜めて聞いてゐた。
母が何とも答へないので、青年は又言葉を続けた。
「返事を待て、返事を待つて呉れと、仰しやる。が、その返事がいゝ返事に定《き》まつてゐれば、五年七年でも待ちます。が、もし五年も七年も待つて、その返事が悪い返事だつたら、一体|何《ど》うなるのです。僕は青春の感情を、貴女に
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