散々弄ばれて、揚句の端《はて》に、突き離されることになるのぢやありませんか。貴女は、僕を何《ど》ちらとも付かない迷ひの裡に、釣つて置いて、何時までも何時まで、僕の感情を弄ばうとするのではありませんか。僕は、貴女のなさることから考へると、さう思ふより外はないのです。」
「まさか、妾《わたし》そんな悪人ではないわ。貴君《あなた》のお心は、十分お受けしてゐるのよ。でも、結婚となると妾《わたし》考へるわ。一度あゝ云ふ恐ろしい結婚をしてゐるのでせう。妾《わたし》結婚となると、何か恐ろしい淵の前にでも立つてゐるやうで、足が竦んでしまふのです。無論、美奈子が結婚してしまへば、妾《わたし》の責任は無くなつてしまふのよ。結婚しようと思へば、出来ないことはないわ。が、その時になつて、本当に結婚したいと思ふか、したくないか、今の妾《わたし》には分らないのよ。」
母は、初めて本心の一部を打ち明けたやうに云つた。
「が、それは貴女《あなた》の結婚に対するお考へです。僕が訊きたいと思ふのは、僕に対する貴女のお考へです。貴女が結婚するかしないかよりも、貴女が僕と結婚するかしないかが、僕には大問題なのです。言葉を換へて云へば、僕を、結婚してもいゝと思ふほど、愛してゐて下さるか何うかが、僕には大問題なのです。」
青年の言葉は、一句々々一生懸命だつた。
「つまり、かう云ふことをお尋ねしたのです。貴女が、もし、将来結婚なさらないで終るのなら、是非もないことです。が、もし結婚なさるならば、何人《なんぴと》を措いても、僕と結婚して下さるかどうかを訊いてゐるのです。時期などは、何時でもいゝ、五年後でも、十年後でも、介意《かま》はないのです、たゞ、若《も》し貴女が結婚しようと決心なさつたときに、夫として僕を選んで下さるか何うかをお訊ねしてゐるのです。」
青年の静かな言葉の裡には、彼の熾烈な恋が、火花を発してゐると云つてもよかつた。
事理の徹つた退引《のつぴき》ならぬ青年の問に、母が何と答へるか、美奈子は胸を顫はしながら待つてゐた。
母は、暫らく返事をしなかつた。夜は、もう十時に近かつた。やゝ欠けた月が、箱根の山々に、青白い夢のやうな光を落してゐた。
約束の夜に
一
「そのお返事は、出来ないことはないと思ふのです。否か応か、孰《どち》らかの返事をして下さればいゝのです。貴女《あなた》が、今まで僕に示して下さつたいろ/\な愛の表情に、たゞ裏書をさへして下さればいゝのです。貴女の将来のお心を訊いてゐるのではないのです。現在の、貴女のお心を訊いてゐるのです。現在の、貴女自身のお心が、貴女に分らない筈はないと思ふのです。たゞ、現在の貴女のお心をハツキリお返事して下さればいゝのです。将来、結婚と云ふ問題が貴女のお考への裡に起つたときには、僕を夫として選ばうと現在思つてゐるかどうかを訊かしていたゞきたいのです。」
青年の問には、ハツキリとした条理が立つてゐた。詭弁を弄しがちな瑠璃子にも、もう云ひ逃れる術は、ないやうに見えた。
「妾《わたし》、貴君《あなた》を愛してゐることは愛してゐるわ。妾《わたし》が、此間中から云つてゐることは、決して嘘ではないわ。が、貴君を愛してゐると云ふことは、必ずしも貴君と結婚したいと云ふことを意味してゐないわ。けれど、貴君に、結婚したいと云ふ希望が、本当におありになるのなら、妾《わたし》は又別に考へて見たいと思ふの。」
瑠璃子の、少しも熱しない返事を訊くと、青年は又激してしまつた。
「考へて見るなんて、貴女のさう云ふお返事はもう沢山です。『考へて見る』『解つてゐる』さう云ふ一時逃れのお返事には、もうあき/\しました。僕は、全か若《も》しくは無を欲するのです。徹底的なお返事が欲しいのです。貴女が、若し『否』と仰《おつ》しやれば、僕も男です。失恋の苦しみと男らしく戦つて、貴女に決して未練がましいことは云はないつもりです、僕は貴女に、承諾して呉れとは云はないのです。孰《どち》らでも、ハツキリとしたお返事が欲しいのです。こんな中途半端な気持の中《うち》に、いつまでも苦しんでゐたくないのです。僕は、貴女の全部を掴みたいのです。でなければ僕はむしろ、貴女の全部を失ひたいのです、恋は暴君です、相手の占有を望んで止まないのです。」
青年は、男らしく強くは云つてゐるものの、彼が瑠璃子に対して、どんなに微弱であるかは、その顫へてゐる語気で明かに分つた。
「一体考へて見るなんて、何時まで考へて御覧になるのです。五六年も考へて見るお積《つもり》なのですか。」
青年は、恨《うらみ》がましくやゝ皮肉らしく、さう云つた。
「いゝえ。明後日まで。」
瑠璃子の答は、一生懸命に突つ掛つて来た相手を、軽く外したやうな意地悪さと軽快さとを持つてゐた。
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