うぜん》としてさう云つた。心の中の同情が、言葉の端々に溢れてゐた。さう云はれると、美奈子も、自分の寂しい孤独の身の上が顧みられて、涙ぐましくなる心持を、抑へることが出来なかつた。
「母が、本当によくして呉れますの。実の母のやうに、実の姉のやうに、本当によくして呉れますの。でも、やつぱり本当の兄か姉かが一人あれば、どんなに頼もしいか分らないと思ひますの。」
 美奈子は、つい誰にも云はなかつた本心を云つてしまつた。
「御尤もです」青年は可なり感動したやうに答へた。「僕なども、兄弟の愛などは、今までそんなに感じなかつたのですが、兄を不慮に失つてから、肉親と云ふものの尊さが、分つたやうに思ふのです。でも、貴女なんか……」さう云つて、青年は一寸云ひ淀んだが、
「今に御結婚でもなされば、今のやうな寂しさは、自然無くなるだらうと思ひます。」
「あら、あんなことを、結婚なんて、まだ考へて見たこともございませんわ。」
 美奈子は、恥かしさうに周章《あわて》て打ち消した。
「ぢや、当分御結婚はなさらない訳ですね。」
 青年は、何故だか執拗に再びさう訊いた。
「まだ、本当に考へて見たこともございませんの。」
 美奈子は、益々狼狽しながらも、ハツキリと口では、打ち消した。が、青年が何うしてさうした問題を繰り返して訊くのかと思ふと、彼女の顔は焼けるやうに熱くなつた。胸が何とも云へず、わくわくした。彼女は、相手が何うして自分の結婚をそんなに気にするのか分らなかつた。が、彼女がある原因を想像したとき、彼女の頭は狂ふやうに熱した。
 彼女は、熱にでも浮されたやうに、平生の慎《つゝし》みも忘れて云つた。
「結婚なんて申しましても、妾《わたくし》のやうなものと、妾《わたくし》のやうな、何の取りどころもないやうなものと。」
 彼女の声は、恥かしさに顫へてゐた。彼女の身体も恥かしさに顫へてゐた。

        七

 美奈子の声は、恥かしさに打ち顫へてゐたけれども、青年は可なり落着いてゐた。余裕のある声だつた。
「貴女なんかが、そんな謙遜をなさつては困りますね。貴女のやうな方が結婚の資格がないとすれば、誰が、どんな女性が結婚の資格があるでせう。貴女ほど――さう貴女ほどの……」
 さう云ひかけて、青年は口を噤んでしまつた。が、口の中では、美奈子の慎ましさや美しさに対する讃美の言葉を、噛み潰したのに違ひなかつた。
 美奈子は、青年が此の次に、何を言ひ出すかと云ふ期待で、身体全体が焼けるやうであつた。心が波濤のやうに動揺した。小説で読んだ若い男女の|恋の場《ラヴ・シーン》が、熱病患者の見る幻覚のやうに、頭の中に頻りに浮んで来た。
 が、美奈子のもしやと云ふ期待を裏切るやうに、青年は黙つてゐた。月の光に透いて見える白い頬が、やゝ興奮してゐるやうには見えるけれども、美奈子の半分も熱してゐないことは明かだつた。
 美奈子も裏切られたやうに、かすかな失望を感じながら、黙つてしまつた。
 沈黙が五分ばかりも続いた。
「もう、そろ/\帰りませうか。まるで秋のやうな冷気を感じますね。着物が、しつとりして来たやうな気がします。」
 青年は、さう言ひながら欄干を離れた。青年の態度は、平生の通りだつた。優しいけれども、冷静だつた。
 美奈子は夢から覚めたやうに、続いて欄干を離れた。自分だけが、興奮したことが、恥しくて堪らなかつた。自分の独合点《ひとりがてん》の興奮を、相手が気付かなかつたかと思ふと、恥しさで地の中へでも隠れたいやうな気がした。
 が、丁度二三町を帰りかけたときだつた。青年は思ひ出したやうに訊いた。
「お母様は何時まで、あゝして未亡人でいらつしやるのでせうか。」
 青年の問は、美奈子が何と答へてよいか分らないほど、唐突《だしぬけ》だつた。彼女は、一寸|答《こたへ》に窮した。
「いや、実はこんな噂があるのです。荘田夫人は、本当はまだ処女なのだ。そして、将来は屹度《きつと》再婚せられる。屹度再婚せられる。僕の死んだ兄などは、夫人の口から直接聴いたらしいのです。が、世間にはいろ/\な噂があるものですから、貴女にでも伺つて見れば本当の事が分りやしないかと思つたのです。」
「妾《わたくし》、ちつとも存じませんわ。」
 美奈子はさう答へるより外はなかつた。
「こんなことを言つてゐる者もあるのです。夫人が結婚しないのは、荘田家の令嬢に対して母としての責任を尽したいからなのだ。だから、令嬢が結婚すれば、夫人も当然再婚せられるだらう。かう言つてゐる者もあるのです。」
 青年は、ホンの噂話のやうにさう言つた。が、青年の言葉を、噛しめてゐる中に、美奈子は傍《かたはら》の渓間へでも突落されたやうな烈しい打撃を感ぜずにはゐられなかつた。
 青年が、自分の結婚のことなどを、訊いた原因が、今ハツキリと分
前へ 次へ
全157ページ中129ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング