間中から、お礼を申上げよう申上げようと思ひながら、ついその儘になつてゐたのです。此間はどうも有難うございました。」
 夕闇に透いて見える彼の白い頬が、思ひ做しか少し赤らんでゐるやうに思はれた。美奈子も相手から、思ひがけもない感謝の言葉を受けて、我にもあらず、顔がほてるやうに熱くなつた。彼女は、青年から礼を云はれるやうな心覚えが、少しもなかつたのである。
「まあ! 何でございますの! わたくし!」
 美奈子は、当惑の目を刮《みは》つた。
「お忘れになつたのですか。お忘れになつてゐるとすれば、僕は愈々《いよ/\》感謝しなければならぬ必要があるのです。お忘れになりましたですか。来る道で僕があんなに自動車に乗ることを厭がつたのを。はゝゝゝゝゝ。自分ながら、今から考へると、余り臆病になり過ぎてゐたやうです。お母様から後で散々冷かされたのも無理はありません。が、あの時は本当に恐かつたのです。妙に気になつてしまつたのです。ベソを掻きさうな顔をしてゐたと、後でお母様に冷かされたのですが、本当にあの時は、そんな気持がしてゐたのです。それに、荘田夫人と来ては、極端に意地がわるいのですからね。僕が恐がれば恐がるほど、しつこく苛めようとするのですからね。本当にあの時の、貴女《あなた》のお言葉は地獄に仏だつたのです。はゝゝゝ。考へて見れば、僕も余り臆病すぎたな。とんだ所を貴女方に見せてしまつた!」
 青年は、冗談のやうに云ひながらも、美奈子に対する感謝の心だけは、可なり真面目であるらしかつた。
「まあ! あんなことなんか。妾《わたくし》、本当に電車に乗りたかつたのでございますわ。」
 美奈子は、顔を真赤にしながら、青年の言葉を打ち消した。が、心の中はこみ上げて来る嬉しさで一杯だつた。
「あの時、僕は本当に貴女の態度に、感心したのです。あの時、露骨に僕の味方をして下さると、僕も恥しいし、お母様も意地になつて、あゝうまくは行かなかつたのでせうが、貴女の自然な無邪気な申出には、遉《さすが》の荘田夫人も、直ぐ賛成しましたからね。僕は、今まで荘田夫人を、女性の中で最も聡明な人だと思つてゐましたが、貴女のあの時の態度を見て、世の中には荘田夫人の聡明さとは又別な本当に女性らしい聡明さを持つた方があるのを知りました。」
「まあ! あんなことを。妾《わたくし》お恥かしうございますわ。」
 さう云つて、美奈子は本当に浴衣の袖で顔を掩うた。処女らしい嬌羞が、その身体全体に溢れてゐた。が、彼女の心は、憎からず思つてゐる青年からの讃辞を聴いて、張り裂けるばかりの歓びで躍つてゐた。
 山の端を離れた月は、此の峡谷に添うてゐる道へも、その朗かな光を投げてゐた。美奈子はつい二三尺離れて、月光の中に匂うてゐる青年の白皙の面《おもて》を見ることが出来た。青年の黒い眸が、時々自分の方へ向つて輝くのを見た。
 二人は、もう一時間前の二人ではなかつた。今まで、遠く離れてゐた二人の心は、今可なり強い速力で、相求め合つてゐるのは確かだつた。
 二人は、また黙つたまゝ、歩いた。が、前のやうな固くるしい沈黙ではなかつた。黙つてゐても心持|丈《だけ》は通つてゐた。
「もつと歩いても、大丈夫ですか。」
 木賀が過ぎて宮城野近くなつたとき、青年は再び沈黙を破つた。
「はい。」
 美奈子は、慎しく答へた。が、心の裡では、『何処までも/\』と云ふ積《つもり》であつたのだ。

        六

 木賀から、宮城野まで、六七町の間、早川の谿谷に沿うた道を歩いてゐる裡に、二人は漸く打ち解けて、いろ/\な問を訊いたり訊かれたりした。
 美奈子の処女らしい無邪気な慎しやかさが、青年の心を可なり動かしたやうだつた。それと同時に青年の上品な素直な優しい態度が、美奈子の心に、深く/\喰ひ入つてしまつた。
 宮城野の橋まで来ると、谿は段々浅くなつてゐる。橋下の水には水車が懸つてゐて、銀《しろがね》の月光を砕きながら、コト/\と廻り続けてゐた。
 月は、もう可なり高く上《のぼ》つてゐた。水のやうに澄んだ光は、山や水や森や樹木を、しつとり濡してゐた。二人は、夏の夜の清浄《しやうじやう》な箱根に酔ひながら、可なり長い間橋の欄干に寄り添ひながら、佇んでゐた。
 美奈子の心の中には、青年に対する熱情が、刻一刻潮のやうに満ちわたつて来るのだつた。今までは、どんな男性に対しても感じたことのないやうな、信頼と愛慕との心が、胸一杯にヒシ/\とこみ上げて来るのだつた。
 話は、何時の間にか、美奈子の一身の上にも及んでゐた。美奈子は到頭、兄の悲しい状態まで話してしまつた。
「さう/\、そんな噂は、薄々聴いてゐましたが、お兄《あにい》さんがそんなぢや、貴女《あなた》には本当の肉親と云つたやうなものは、一人もないのと同じですね。」
 青年は悵然《ちや
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