度道の左側にある理髪店の軒端に[#「軒端に」は底本では「軒瑞に」]佇みながら、若い衆が指してゐる将棋を見てゐる青年の横顔を見付けたのである。
青年に近づく前に、彼女の小さい胸は、どんなに顫へたか分らなかつた。でも、彼女はあり丈《だけ》の勇気で、近づいて行つた。
「茲《ここ》にいらつしたのですか。妾《わたくし》も、散歩にお伴いたしますわ。母は、帰りさうにもありませんですから。」
彼女は、低い小さい声で、途切れ/\に言つた。青年は、駭《おどろ》いて彼女を振り返つた。投げた礫《つぶて》が忘れた頃に激しい水音を立てたやうに、青年は自分の一寸した勧誘が、少女の心を、こんなに動かしてゐることに、駭いた。が、それは決して不快な駭きではなかつた。
「ぢや、お伴しませうか。」
さう言ひながら、青年は歩き初めた。美奈子は、二三尺も間隔を置きながら従つた。夢のやうな幸福な感じが、彼女の胸に充ち満ちて、踏む足も地に付かないやうに思つた。
四
初め、連れ立つてから、半町ばかりの間、二人とも一言も、口を利かなかつた。初めて、若い男性、しかも心の奥深く想つてゐる若い男性とたゞ二人、歩いてゐる美奈子の心には、散歩をしてゐると云つたやうな、のんきな心持は少しもなかつた。胸が絶えず、わく[#「わく」に傍点]/\して、息は抑へても/\弾むのであつた。
青年も、黙つてゐた。たゞ、黙つてグン/\歩いてゐた。二人は、散歩とは思はれないほどの早さで、歩いてゐた。何処へ行くと云ふ当もなしに。
早川の谿谷の底|遥《はる》かに、岩に激してゐる水は、夕闇を透してほのじろく見えてゐた。その水から湧き上つて来る涼気は、浴衣《ゆかた》を着てゐる美奈子には、肌寒く感ぜられるほどだつた。
青年が、何時までも黙つてゐるので、美奈子の心は、妙に不安になつた。美奈子は自分が後を追つて来たはしたなさ[#「はしたなさ」に傍点]を、相手が不愉快に思つてゐるのではないかと、心配し始めた。自分が思ひ切つて後を追つて来たことが、軽率ではなかつたかと、後悔し初めた。
が、二人が丁度、底倉と木賀との間を流れてゐる、蛇骨川《じやこつがは》の橋の上まで、来たときに、青年は初めて口を利いた。立ち止つて空を仰ぎながら、
「御覧なさい! 月が、出かゝつてゐます。」
さう云はれて、今迄俯きがちに歩いて来た美奈子も、立ち止つて空を振り仰いだ。
早川の対岸に、空を劃《くぎ》つて聳えてゐる、連山の輪廓を、ほの/″\とした月魄《つきしろ》が、くつきりと浮き立たせてゐるのであつた。
相模灘を、渡つて来た月の光が今丁度箱根の山々を、照し初めようとしてゐる所だつた。
「まあ! 綺麗ですこと。」
美奈子もつい感嘆の声を洩した。
「旧の十六日ですね、きつと。いゝ月でせう。空が、あんなによく晴れてゐます。東京の、濁つたやうな空と比べると何《ど》うです。これが本当に緑玉《エメラルド》と云ふ空ですね。」
青年は、心ゆくやうに空を見ながら云つた。美奈子も、青年の眸を追うて、大空を見た。夏の宵の箱根の空は、磨いたやうに澄み切つてゐた。
「本当に美しい空でございますこと。」
美奈子も、しみ/″\とした気持でさう云つた。丁度、今までかけられてゐた沈黙の呪が解かれたやうに。
「やつぱり空気がいゝのですね。東京の空と違つて、塵埃《じんあい》や煤煙がないのですね。」
「山の緑が映つてゐるやうな空でございますこと。」
美奈子も、つい気軽になつてさう云つた。
「さうです。本当に山の緑が映つてゐるやうな空です。」
青年は、美奈子の云つた言葉を噛みしめるやうに繰り返した。
二人は、また暫らく黙つて歩いた。が、もう先刻《さつき》のやうなギゴチなさは、取り除かれてゐた。美しい自然に対する讃美の心持が、二人の間の、心の垣を、ある程度まで取り除けてゐた。美奈子は、青年ともつと親しい話が出来ると云ふ自信を得た。青年も、美奈子に対してある親しみを感じ初めたやうだつた。
四五尺も離れて歩いてゐた二人は、何時の間にか、孰《どち》らからともなく寄添うて歩いてゐた。
美奈子は、相手に話したいことが、山ほどもあるやうで、しかもそれを考へに纏めようとすると、何も纏まらなかつた。唖が、大切な機会に喋べらうとするやうに、たゞいら/\焦り立つてゐるばかりだつた。
「さう/\、貴女《あなた》に申上げたいことがあつたのです。つい、此間中から機会がなくて。」
青年は、大切なことをでも、話すやうに言葉を改めた。動き易い少女の心は、そんなことにまで烈しく波立つのだつた。
五
相手がどんなことを云ひ出すのかと、美奈子は、胸を躍らしながら待つてゐた。
青年は、一寸云ひ憎さうに、口籠つてゐたが、やつと思ひ切つたやうに云つた。
「此
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