とにかく、彼女の小さい胸は、息《やすら》ふ暇《いとま》もない水鳥の脚のやうに動いてゐた。
 彼女に一番楽しいのは、夕暮の散歩かも知れなかつた。晩餐が終つてから、美奈子は母と青年との三人で、よく散歩した。早川の断崖に添うた道を、底倉から木賀へ、時には宮城野まで、岩に咽ぶ早川の水声に、夏を忘れながら。
 箱根へ来てから、五日ばかり経つたある日の夕方だつた。美奈子達が、晩餐が終つてから、食堂を出ようとしたとき、瑠璃子はふとその入口で、その日来たばかりの知合の仏蘭西《フランス》大使の令嬢と出会つた。日本|好《ずき》の此の令嬢は、瑠璃子とは可なり親しい間柄だつた。彼女は思ひがけない処で、瑠璃子に会つたのを可なり欣んだ。瑠璃子は誘はれるまゝに、大使令嬢の部屋を訪ねて行つた。
 美奈子と、青年とは部屋に帰つたものの、手持無沙汰に、ボンヤリとして、暮れて行く夕暮の空に対してゐた。
 二人は、心の中では銘々に、瑠璃子の帰るのを待つてゐた。が、二十分経つても三十分経つても、瑠璃子は帰りさうにも見えなかつた。
 青年は平素《いつも》のやうに、散歩に出たいと見え、ステツキを持つたり、帽子を手にしたりしながら、瑠璃子の帰るのを待つてゐるらしかつた。が、瑠璃子は却々《なか/\》帰つて来なかつた。
 青年はやゝ待ちあぐみかけたらしかつた。彼はもう明るく電燈の点いた部屋の中を、四五歩宛行つたり来たりしてゐたが、半《なかば》独語のやうに美奈子に云つた。
「お母様は、却々お帰りになりませんね。」
「はい。」
 窓に倚つて輝き初めた星の光をボンヤリ見詰めてゐた美奈子は、低い声で聞えるか聞えないかのやうに答へた。青年は、自分一人で出て行きたいらしかつたが、美奈子を一人ぼつちにして置くことが、気が咎めるらしかつた。彼は、到頭云ひ憎くさうに云つた。
「美奈子さん。如何です、一緒に散歩をなさいませんか。お母様をお待ちしてゐても、なかなかお帰りになりさうぢやありませんから。」
 青年は、口籠りながらさう云つた。
「えゝつ!」
 美奈子は彼女自身の耳を疑つてゐるかのやうに、つぶらなる目を刮《みは》つた。

        三

 美奈子に取つては、青年から散歩に誘はれたことが、可なり大きな駭《おどろ》きであつた。四五日一緒に生活して来たと云ふものの、二人向ひ合つては、短い会話一つ交したことがなかつた。
 その相手から、突然散歩に誘はれたのであるから、彼女が駭《おどろ》きの目を刮つたまゝ、わく/\する胸を抑へたまゝ、何とも返事が出来なかつたのも、無理ではなかつた。
 青年は、美奈子の返事が遅いのを、彼女が内心当惑してゐる為だと思つたのであらう。彼は、自分の突然な申出の無躾さを恥ぢるやうに云つた。
「いらつしやいませんですか。ぢや、僕一人行つて来ますから。僕は、日の暮方には、どうも室の中にぢつとしてゐられないのです。」
 青年は、弁解のやうに、さう云ひながら室を出て行かうとした。
 美奈子は、胸の内で、青年の勧誘に、どれほど心を躍らしたか分らなかつた。青年とたつた二人切りで、散歩すると云ふことが、彼女にとつてどんな駭きであり欣びであつただらう。彼女は、駭きの余りに、青年の初めの勧誘に、つい返事をし損じたのであつた。彼女は、どんなに青年が、もう一度勧めて呉れるのを待つたであらう。もう一度、勧めてさへ呉れゝば、美奈子は心も空に、青年の後から従《つ》いて行くのであつたのだ。
 が、青年には美奈子の心は、分らなかつた。彼には、美奈子が返事をしないのが、処女らしい恥しさと後退《しりごみ》のためだとより、思はれなかつた。彼は、最初から誘はなければよかつたと思ひながら、一寸気まづい思ひで、部屋を出た。
 青年が、部屋を出る後姿を見ると、美奈子は取返しの付かないことをしたやうに思つた。もう再びとは、得がたい黄金の如き機会を、永久に失ふやうな心持がした。その上、青年の勧めに、返事さへしなかつたことが、彼女の心を咎め初めた。それに依つて、相手の心を少しでも傷けはしなかつたかと思ふと、彼女は立つても坐つても、ゐられないやうな心持がし初めた。
 一二分、考へた末、彼女は到頭堪らなくなつて部屋を出た。長い廊下を急ぎ足に馳けすぎた。ホテルの玄関で、草履を穿くと、夏の宵闇の戸外へ、走り出でた。
 玄関前の広場にある噴水のほとりを、透して見たけれども、その人らしい影は見えなかつた。彼女は、到頭宮の下の通《とほり》に出た。
 青年の行く道は、分つてゐた。彼女は、胸を躍らしながら、底倉の方へと急いだ。
 温泉町《いでゆまち》の夏の夕は、可なり人通が多かつた。その人かと思つて近づいて行くと、見知らない若い人であつたりした。
 が、美奈子が宮の下の賑やかな通《とほり》を出はづれて、段々淋しい崖上の道へ来かゝつたとき、丁
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