、電車で行つて下さることは出来ないでせうか。兄の惨死の記憶が、僕にはまだマザ/\と残つてゐるのです。兄を襲つた運命が、肉親の僕に、何だか糸を引いてゐるやうに、不吉な胸騒ぎがするのです。何だか、兄と同じ惨禍に僕が知らず識らず近づいてゐるやうな、不安な心持がするのです。」
 青年は、可なり一生懸命らしかつた。が、瑠璃子は青年の哀願に耳を傾けるやうな容子も見せなかつた。彼女は、意志の弱い男性を、グン/\自分の思ひ通《どほり》に、引き廻すことが、彼女の快楽の一つであるかのやうに云つた。
「まあ! 貴君のやうに、さうセンチメンタルになると、いやになつてしまひますよ。妾《わたし》は運命だとか胸騒ぎだとか云ふやうな言葉は、大嫌ひですよ。妾《わたし》は徹底した物質主義者《マテリアリスト》です。電車なんか、あんなに混んでゐるぢやございませんか。さあ、乗りませう。いゝぢやございませんの。自動車が崖から落《おつ》こちても、死なば諸共ですわ。貴君《あなた》、妾《わたし》と一緒なら、死んでも本望ぢやなくて? おほゝゝゝゝゝ。」
 夫人は、奔放にさう云ひ放つと、青年が何《ど》う返事するかも待たないで、美奈子を促しながら、一台の自動車に、ズンズン乗つてしまつた。
 此の時の青年は、可なりみじめだつた。瑠璃子夫人の前では、手も足も出ない青年の容子が、美奈子にも、可なりみじめに、寧ろ気の毒に思はれた。
 彼は屠所の羊のやうに、泣き出しさうな硬ばつた微笑を、強ひて作りながら、美奈子達の後から乗つた。
「そんなにクヨ/\なさるのなら、連れて行つて上げませんよ。」
 夫人は、子供をでも叱るやうに、愛撫の微笑を目元に湛へながら云つた。
 青年は、黙つてゐた。彼は、夫人の至上命令のため、止むなく自動車に乗つたものの、内心の不安と苦痛と嫌悪とは、その蒼白い顔にハツキリと現はれてゐた。臆病などと云ふことではなくして、兄の自動車での惨死が、善良な純な彼の心に、自動車に対する、殊に箱根の――唱歌にもある嶮しい山や、壑《たに》の間を縫ふ自動車に対する不安を、植ゑ付けてゐるのであつた。
 美奈子は、心の中から青年が、気の毒だつた。
 母が故意に、青年の心持に、逆らつてゐることが、可なり気の毒に思はれた。
 自動車が、小田原の町を出はづれた時だつた。美奈子は何気ないやうに云つた。
「お母様。湯本から登山電車に乗つて御覧にならない。此間の新聞に、日本には始めての登山電車で瑞西《スヰツル》の登山鉄道に乗つてゐるやうな感じがするとか云つて、出てゐましたのよ。」
 美奈子には、優しい母だつた。
「さうですね。でも、荷物なんかが邪魔ぢやない?」
「荷物は、このまま自動車で届けさへすればいいわ。特等室へ乗れば自動車よりも、楽だと思ひますわ。」
「さうね。ぢや、乗り換へて見ませうか。青木さんは、無論御賛成でせうね。」
 瑠璃子は、青年の顔を見て、皮肉に笑つた。青年は、黙つて苦笑した。が、チラリと美奈子の顔を見た眼には美奈子の少女らしい優しい好意に対する感謝の情が、歴々《あり/\》と動いてゐた。

        二

 富士屋ホテルの華麗な家庭部屋の一つの裡で、美奈子達の避暑地生活は始まつた。
『暮したし木賀《きが》底倉《そこくら》に夏三月』それは昔の人々の、夏の箱根に対する憧憬《あこがれ》であつた。関所は廃れ、街道には草蒸し、交通の要衝としての箱根には、昔の面影はなかつたけれども、温泉《いでゆ》は滾々《こん/\》として湧いて尽きなかつた。青葉に掩はれた谿壑《けいがく》から吹き起る涼風は、昔ながらに水の如き冷たさを帯びてゐた。
 殊に、美奈子達の占めた一室は、ホテルの建物の右の翼の端《はづれ》にあつた。開け放たれた窓には、早川の対岸明神岳明星岳の翠微が、手に取るごとく迫つてゐた。東方、早川の谿谷が、群峰の間にたゞ一筋、開かれてゐる末《すゑ》遥《はるか》に、地平線に雲のゐぬ晴れた日の折節には、いぶした銀の如く、ほのかに、雲とも付かず空とも付かず、光つてゐる相模灘が見えた。
 設備の整つたホテル生活に、女中達が不用なため、東京へ帰してからは、美奈子達三人の生活は、もつと密接になつた。
 美奈子は、最初青年に対して、口も碌々利けなかつた。たゞ、折々母を介して簡単な二言三言を交へる丈《だけ》だつた。
 母が青年と話してゐるときには、よく自分一人その場を外して、縁側《ヴェランダ》に出て、其処にある籐椅子に何時までも何時までも、坐つてゐることが、多かつた。
 又何かの拍子で、青年とたゞ二人、部屋の中に取り残されると、美奈子はまた、ぢつとしてゐることが出来なかつた。青年の存在が、息苦しいほどに、身体全体に感ぜられた。
 さうした折にも、美奈子は、やつぱりそつと部屋を外して、縁側《ヴェランダ》に出るのが常だつた。
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