「さうです。たしか美奈子さんより三四年下なのですが、お顔なんかよく知つてゐるのです。此間も『あれが荘田さんのお嬢さんだ』と言ふものですから一寸驚いたのです。僕の妹を御存じありませんか。」
 青年は、初めて親しさうに、美奈子に口を利いた。
「はい、お顔|丈《だけ》は存じてゐますの。」
 美奈子は、口の裡で呟くやうに答へた。が、青年から親しく口を利かれて見ると、美奈子の寂しく傷いてゐた心は、緩和薬《バルサム》をでも、塗られたやうになごんでゐた。今まで、恐ろしく寂しく考へられてゐた避暑地生活に、一道の微光が漂つて来たやうに思はれた。

        七

 それから汽車が、国府津へ着くまで、青年は美奈子に、幾度も言葉をかけた。平素《いつも》妹を相手にしてゐると見えて、その言葉には、女性――殊に年下の女性に対する親しみが、自然に籠つてゐた。青年の一言々々は、美奈子のこじれかからうとした胸を春風のやうに、撫でさするのであつた。美奈子は最初陥つてゐた不快な感情から、いつの間にか、救はれてゐた。自分が、妙にひがんで、嫉妬に似た感情を持つてゐたことを、はしたないとさへ思ひ始めてゐた。
 国府津へ着いたとき、もう美奈子は、また元の処女らしい、感情と表情とを取り返してゐた。
 国府津のプラットフォームに降り立つた時、瑠璃子は駆け寄つた赤帽の一人に、命令した。
「あの、自動車を用意させておくれ!――さう、一台ぢや、窮屈だから――二台ね、宮の下まで行つて呉れるやうに。」
 赤帽が命を受けて馳け去つたときだつた。今まで他の赤帽を指図して手荷物を下させてゐた青年が驚いて瑠璃子の方を振り顧つた。
「奥さん! 自動車ですか。」
 青年の語気は可なり真面目だつた。
「さうです。いけないのですか。」
 瑠璃子は、軽く揶揄するやうに反問した。
「あんなにお願ひしてあつたのに聴いて下さらないのですか。」
 温和《おとな》しい青年は、可なり当惑したやうに、暗い表情をした。
 瑠璃子は、華やかに笑つた。
「あら! まだ、あんなことを気にしていらつしやるの。妾《わたし》貴君が冗談に云つていらしつたのかと思つたのですよ。兄さんが、自動車で死なれたからと云つて、自動車を恐がるなんて、迷信ぢやありませんか。男らしくもない。自動車が衝突するなんて、一年に一度あるかないかの事件ぢやありませんか。そんなことを恐れて、自動車に乗らないなんて。」
 夫人は、子供の臆病をでも叱するやうに云つた。
「でも、奥さん。」青年は、可なり懸命になつて云つた。「兄が、やつぱり此の国府津から自動車に乗つてやられたのでせう。それからまだ一月も経つてゐないのです。殊に、今度箱根へ行くと云ふと、父と母とが可なり止めるのです。で、やつと、説破《せつぱ》して、自動車には乗らないと云ふ条件で、許しが出たのです。だから、奥さんにも、自動車には乗らないと云つてあれほど申上げて置いたぢやありませんか。」
「お父様やお母様が、さうした御心配をなさるのは、尤《もつとも》と思ひますわ。でも貴君迄が、それに[#「それに」は底本では「それ」]感化《かぶ》れると云ふことはないぢやありませんか。縁起などと、云ふ言葉は、現代人の辞書にはない字ですわね。」
「でも、奥さん! 肉親の者が、命を殞《おと》した殆ど同じ自動車に、まだ一月も経つか経たないかに乗ると云ふことは、縁起だとか何とか云ふ問題以上ですね。貴女だつて、もし近しい方が、自動車であゝした奇禍にお逢ひになると、屹度《きつと》自動車がお嫌ひになりますよ。」
「さうかしら。妾《わたし》は、さうは思ひませんわ。だつてお兄さんだつて妾《わたし》には可なり近しい方だつたのですもの。」
 さう云つて夫人は淋しく笑つた。
「でも、いゝぢやありませんか。妾《わたし》と一緒ですもの。それでもお嫌ですか。」
 さう云つて、嫣然《えんぜん》と笑ひながら、青年の顔を覗き込む瑠璃子夫人の顔には、女王のやうな威厳と娼婦のやうな媚《こび》とが、二つながら交つてゐた。
 瑠璃子の前には、小姓か[#「小姓か」は底本では「小姓が」]何かのやうに、力のないらしい青年は、極度の当惑に口を噤んだまま、その秀でた眉を、ふかく顰めてゐた。背丈こそ高く、容子こそ大人びてゐるが、名門に育つた此の青年が対人的にはホンの子供であることが、瑠璃子にも、マザ/\と分つた。


 ある三角関係

        一

 その裡に、美奈子達の一行は改札口を出てゐた。駅前の広場には、赤帽が命じたらしい自動車が二台、美奈子達の一行を待つてゐた。
 青年は、瑠璃子夫人の力に、グイ/\引きずられながらも、自動車に乗ることは、可なり気が進んでゐないらしかつた。
 彼は哀願するやうに、オヅ/\と夫人に云つた。
「何うです? 奥さん。僕お願ひなのですが
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