母と青年とが、馴々しく話しあつてゐることが、不思議に、彼女の心に苦い滓を掻き乱すのであつた。殊に青年が人目を忍ぶやうに、品川からたゞ一人、コツソリと乗つたことが、美奈子の心を、可なり傷《きずつ》けた。母と青年との間に、何か後暗い翳でもがあるやうに、思はれて仕方がなかつた。
「何《ど》うして、僕が奥さんと一緒に行くことが分つたのでせう。僕は誰にも云つたことはないのですがね。」
 青年は一寸云ひ訳のやうに云つた。
「何|分《わか》つてゐてもいゝのですよ。薄々分つてゐる位が、丁度いゝのですよ。貴君となら、分つてゐてもいゝのですよ。」
 夫人は、軽い媚《こび》を含みながら云つた。
「光栄です。本当に光栄です。」
 青年は冗談でなく、本当に心から感激してゐるやうに云つた。
 母と青年との会話は、自由に快活に馴々しく進んで行つた。美奈子は、なるべくそれを聴くまいとした。が、母が声を低めて云つてゐることまでが、神経のいらだつてゐる美奈子の耳には、轟々たる車輪の、響にも消されずに、ハツキリと響いて来るのだつた。
 母と青年との一問一答に、小さい美奈子の胸は、益々傷けられて行くのだつた。時々母が、
「美奈さん! 貴女《あなた》は何う思つて?」
 などと黙つてゐる彼女を、会談の圏内に入れようとする毎に、美奈子は淋しい微笑を洩す丈《だけ》だつた。
 美奈子は、青年の姿を見ない前までは、青年の同行することは、恐ろしいが同時に限りない歓喜がその中に潜んでゐるやうに思はれた。が、それが実現して見ると、それは恐ろしく、寂しく、苦しい丈《だけ》であることが、ハツキリと分つた。此先一月も、かうした寂しさ苦しさを、味はつてゐなければならぬかと思ふと、美奈子の心は、墨を流したやうに真暗になつてしまつた。

        六

 汽車は、美奈子の心の、恋を知り初めた処女の苦しみと悩みとを運びながら、グン/\東京を離れて行つた。
 夫人と青年との親しさうな、しめやかな、会話は続いた。夫人は久し振《ぶり》に逢つた弟をでも、愛撫するやうに、耳近く口を寄せて囁いたり、軽く叱するやうに言つたりした。青年は青年で、姉にでも甘えるやうに、姉から引き廻されるのを欣ぶやうに、柔順に温和に夫人の言葉を、一々微笑しながら肯《き》いてゐた。
 美奈子は、母と青年との会話を、余りに気にしてゐる自分が、何だか恥しくなつて来た。彼女は、成るべく聞くまい見まいと思つた。が、さう努めれば努めるほど、青年の言葉やその白皙の面《おもて》に浮ぶ微笑が、悩ましく耳に付いたり、眼についたりした。
 青年の面には、歓喜と満足とが充ち溢れてゐるのが、美奈子にも感ぜられた。彼の眼中には、瑠璃子夫人以外のものが、何も映つてゐないことが、美奈子にもあり/\と感ぜられた。母の傍《そば》にゐる自分などは、恐らく青年の眼には、塵ほどにも、芥ほどにも、感ぜられてはゐまいと思ふと、美奈子は烈しい淋しさで胸が掻き擾《みだ》された。
 が、それよりも、もつと美奈子を寂しくしたことは、今迄愛情の唯一の拠り処としてゐた母が、たとひ一時ではあらうとも、自分よりも青年の方へ、親しんでゐることだつた。
 大船を汽車が出たとき、美奈子は何うにも、堪らなくなつて、向う側の座席が空いたのを幸《さひはひ》に、景色を見るやうな風をして、其処へ席を移した。
 母と青年との会話は、もう聞えて来なくなつた。が、一度掻き擾された胸は、たやすく元のやうには癒えなかつた。
 彼女は、かうした苦しみを味はひながら、此先一月も過さねばならぬかと思ふと、どうにも堪らないやうに思はれ出した。さうだ! 箱根へ着いて二三日したら、何か口実を見付けて自分|丈《だ》け帰つて来よう。美奈子は、小さい胸の中でさう決心した。
 丁度、さう考へてゐたときに、
「美奈子さん! 一寸いらつしやい!」
 と、母から何気なく呼ばれた。美奈子は淋しい心を、ぢつと抑へながら、元の座席へ帰つて行つた。顔|丈《だけ》には、強ひて微笑を浮べながら。
「貴女《あなた》! 青木さんと、青山墓地で、会つたことがあるでせう!」
 母は、美奈子が坐るのを待つてさう言つた。青年の顔を、チラリと見ると、彼もニコ/\笑つてゐた。美奈子は、何か秘密にしてゐたことを母に見付けられたかのやうに、顔を真赤にした。
「貴女《あなた》は覚えてゐないの?」
 母は、美奈子をもつとドギマギさせるやうに言つた、
「いゝえ! 覚えてゐますの。」
 美奈子は周章《あわて》て[#「周章《あわて》て」は底本では「周章《あわ》て」]さう言つた。
 美奈子は、青年が自分を覚えてゐて呉れたことが、何よりも嬉しかつた。
「青木さんの妹さんが、よく貴女を知つていらつしやるのですつて。ねえ! 青木さん。」
 夫人は賛成を求めるやうに、青木の方を振り顧つた。
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