。が、その人は到頭姿を現はさない。母も前言を打ち消すやうな事を言つてゐる。美奈子の心配はなくなつた。それと同時に、彼女の歓喜も消えた。たゞ白々しい寂しさ丈《だけ》が、彼女の胸に残つてゐた。
 美奈子の心持を少しも知らない瑠璃子は、美奈子が沈んだ顔をしてゐるのを慰めるやうに言つた。
「美奈さんなんか、何うお考へになつて。妾達《わたしたち》女性を追うてゐるあゝ云ふ男性を。あゝ云ふ女性追求者と云つたやうな人達を。」
 美奈子は黙つて答をしなかつた。母が交際《つきあ》つてゐる人達を、厭だとも言へなかつた。それかと言つて、決して好きではなかつた。
「あんな人達と結婚しようなどとは、夢にも考へないでせうね。男性は男性らしく、女性なんかに屈服しないでゐる人が、頼もしいわね。」
 美奈子も、ついそれに賛成したかつた。が、青木と呼ばれるらしい青年も、やつぱりさうして男性らしくない女性追求者の一人かと思ふと、美奈子はやつぱり黙つてゐる外はなかつた。
「妾達《わたしたち》を、追うて来る人でも、身体と心との凡てを投じて、来る人はまだいゝのよ。あの人達なんか遊び半分なのですもの。狼の散歩|旁々《かた/″\》人の後から従《つ》いて行くやうなものなのよ。つい、蹉《つまづ》いたら、飛びかゝつてやらう位にしか思つてゐないのですもの。」
 美奈子は、母の辛辣な思ひ切つた言葉に、つい笑つてしまつた。男性のことを話すと、敵か何かのやうに罵倒する母が、何故多くの男性を近づけてゐるかが、美奈子にはたゞ一つの疑問だつた。
「青木さんと云ふ方、一緒にいらつしやるのぢやないの?」
 美奈子は、やつと、心に懸つてゐたことを訊いてみた。母は、意味ありげに笑ひながら言つた。
「いらつしやるのよ。」
「後からいらつしやるの?」
「いゝえ!」母は笑ひながら、打ち消した。
「ぢや、先にいらつしやつたの?」
「いゝえ!」母は、やつぱり笑ひながら打ち消した。
「ぢや何時?」
 母は笑つたまゝ返事をしなかつた。
 丁度その時に、汽車が品川駅に停車した。四五人の乗客が、ドヤ/\と入つて来た。
 丁度その乗客の一番後から、麻の背広を着た長身白皙の美青年が、姿を現はした。瑠璃子夫人の姿を見ると、ニツコリ笑ひながら、近づいた。右の手には旅行用のトランクを持つてゐた。
「おや! いらつしやい!」
 夫人は、溢れる微笑を青年に浴びせながら言つた。
「さあ! おかけなさい!」
 夫人はその青年のために、座席《シート》を取つて置いたかのやうに、自分の右に置いてあつた小さなトランクを取り除けた。

        五

 美奈子は、駭《おどろ》きに目を眸《みは》りながら[#「眸《みは》りながら」は底本では「眸《みはり》りながら」]、それでもそつと青年の顔を窃《ぬす》み見た。それは、紛れもなく彼の青年であつた。墓地で見、電車に乗り合はし、自分の家を訪ねるのを見た彼の青年に違ひなかつた。
 美奈子は、胸を不意に打たれたやうに、息苦しくなつて、ぢつと面《おもて》を伏せてゐた。
 が、美奈子のさうした態度を、処女に普通な羞恥だと、解釈したらしい瑠璃子は、事もなげに云つた。
「これが先刻《さつき》お話した青木さんなの。」
 紹介された青年は、美奈子の方を見ながら、丁寧に頭を下げた。
「お嬢様でしたか。いつか一度、お目にかゝつたことがありましたね。」
 さう云はれて、『はい。』と答へることも、美奈子には出来なかつた。彼女はそれを肯定するやうに、丁寧に頭を下げた丈けだつたが、青年が自分を覚えてゐて呉れたことが、彼女をどんなに欣ばしたか分らなかつた。
 青年は、瑠璃子の右側近く腰を降した。
「貴君《あなた》、大変だつたのよ。今東京駅でね。皆知つていらつしやるのよ。妾《わたし》が今日立つと云ふことを。そればかりでなく貴君が一緒だと云ふこと迄知つていらつしやるのよ。だから、極力打ち消して置いたのよ。若し青木さんが一緒だつたら、その償ひとして皆さんを箱根へ御招待しますつて。それでも皆善人ばかりなのよ、おしまひには妾《わたし》の云ふことを信じてしまつたのですもの。だから、妾《わたし》が云はないことぢやないでせう。品川か新橋か孰《どち》らかでお乗りなさいと。妾《わたし》、貴君が妾《わたし》の云ふことを聴かないで、ひよつくり東京駅へ来やしないかと思つて、ビク/\してゐましたの。」
 夫人は、弟にでも話すやうに、馴々しかつた。青年は姉の言葉をでも、聴いてゐるやうに、一言一句に、微笑しながら肯いた。
 それを、黙つて聴いてゐる美奈子の心の中に、不思議な不愉快さが、ムラ/\と湧いて来た。それは彼女自身にも、一度も経験したことのないやうな、不快な気持だつた。彼女は、母に対して、不快を感じてゐるのでなく、青年に対して、不快を感じてゐるのでなく、たゞ
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