三
「まあ! 青木さんを連れて行くつて。嘘ばつかり。青木さんなんか、まだ兄さんの忌《いみ》も明けてゐない位ぢやありませんか。」
瑠璃子夫人は、事もなげに打消した。美奈子は、母が先刻自分に肯定したことを、かうも安々と、打ち消してゐるのを聴いたとき、内心少からず驚いた。自分に対しては可なり親切な、誠意のある母が、かうも男性に向つては白々しく出来ることが、可なり異様に聞えた。
「忌《いみ》もまだ明けないだらうつて。奥さんにも似合はない旧弊なことを仰《おつ》しやるのですね。忌|位《ぐらゐ》明けなくつたつて、いゝぢやありませんか。殊に、奥さんと一緒に行くんだつたら、死んだ兄さんだつて、冥土で満足してゐるかも知れませんよ。死んだ青木淳君の瑠璃子夫人崇拝は人一倍だつたのですからね。あの男の貴女《あなた》に対する態度は、狂信に近かつたのですからね。」
長髪の画家が、一寸皮肉らしく言つた。
夫人は、美しい顔を、少し曇らせたやうだつたが、直ぐ元の微笑に帰つて、
「まあ! 何とでも仰《おつ》しやいよ。でも青木さんのいらつしやらないのは本当よ。論より証拠青木さんは、お見えにならないぢやありませんか。」
「奥さん! そんなことは、証拠になりませんよ。発車間際に姿を現して、我々がアツと言つてゐる間に、汽笛一声発車してしまふのぢやありませんか。貴女《あなた》のなさることは、大抵そんなことですからね。」
此の内で、一番年配らしい三十二三の夏の外套を着た紳士が、始めて口を入れた。
「御冗談でございませう! 富田さん。青木さんをお連れするのだつたら、さうコソ/\とはいたしませんよ。まさか、貴君が赤坂の誰かを湯治に連れていらつしやるのとは違つてゐますから。」
瑠璃子夫人の巧みな逆襲に、みんなは声を揃へて哄笑した。富田と呼ばれた紳士は苦笑しながら言つた。
「まあ、青木君の問題は、別として、僕も、近々箱根へ行かうと思つてゐるのですが、彼方《あちら》でお訪ねしても、介意《かま》ひませんか。」
瑠璃子夫人は、微笑を含みながら、而も乱麻を断つやうに答へた。
「いゝえ! いけませんよ。此の夏は男禁制! 誰かの歌に、こんなのが、あるぢやありませんか。『大方の恋をば追はず此の夏は真白草花白きこそよけれ』妾《わたくし》も、さうなのよ、此の夏は、本当に対人間の生活から、少し離れてゐたいと思ひますの。」
「ところが、奥さん。その真白草花と云ふのが、案外にも青木|弟《ジュニヨル》だつたりするのぢやありませんか。」
小山と呼ばれた外交官らしい紳士が、突込んだ。
「まあ! 執念深い! 発車するまでに、青木さんが、お見えになつたら、その償《つぐなひ》として、皆さんを箱根へ御招待しますわ。御覧なさい、もう切符を切りかけたのに、青木さんはお見えにならないぢやありませんか。」
夫人はさう言ひながら、美奈子達を促して改札口の方へ進んだ。若い紳士達は、蟻の甘きに従くやうに、夫人の後から、ゾロ/\と続いた。
夫人が、汽車に乗つた後も、青木と呼ばれる青年は姿を現さなかつた。若い男達は、やつと夫人の言葉を信じ初めた。
「向うから、お呼び寄せになるか何《ど》うかは別として、今日同行なさらないこと丈《だけ》は、信じましたよ。はゝゝゝゝ。」
小山と云ふ男が、発車間際になつて、さう言つた。
「まだそんな負惜しみを、言つていらつしやるの!」
夫人は、さう言ひながら、嫣然《につこり》と笑つて見せた。
美奈子は、何が何だつたか、判らなくなつた。母の自動車の中の言葉では、青木と云ふ青年が――墓地で逢つた彼の人に相違ない青年が――東京駅で待つてゐるやうだつた。而も母は、今そのことをきつぱり打ち消してゐる。
美奈子は安心したやうな、而も失望したやうな妙な心持の混乱に悩んでゐた。
汽車が出るまで、到頭青木は姿を、見せなかつた。
四
汽車が動き初めても、青木の姿は、到頭見えなかつた。
「それ御覧なさい! 疑ひはお晴れになつたでせう!」
夫人は、車窓から、その繊細な上半身を現しながら、見送つてゐる人達に、さうした捨台辞《すてぜりふ》を投げた。
男性達が、銘々いろ/\な別辞を返してゐる裡に、汽車は見る/\駅頭を離れてしまつた。
「まあ! うるさいたらありはしないわ。こんな小旅行《トリップ》の出発を、わざ/\見送つて呉れたりなどして。」
夫人は美奈子に対する言ひ訳のやうに呟きながら席に着いた。
母を囲む男性達が、青木の同行を気にかけてゐる以上に、もつと気にかけてゐたのは美奈子だつた。その人と一緒に汽車に乗つたり、一緒に宿屋に宿つたり、同じ食卓に着いたりすることを考へると、彼女の小さい心は、戦いてゐたと云つてもよかつた。それは恐ろしいことであり、同時に、限りなき歓喜でもあつたのだ
前へ
次へ
全157ページ中121ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング