判つた。新しく兄を失つた青木と云ふ青年が、彼女が青山墓地で見たその人であることに、もう何の疑《うたがひ》も残つてゐなかつた。
美奈子の心は、嵐の下の海のやうに乱れ立つた。かの青年と、少くとも向う一箇月間一緒に暮すと云ふことが、彼女の心を、取り乱させるのに十分だつた。それは嬉しいことだつた。が、それは同時に怖しいことだつた。それは、楽しいことだつた。が、それは同時に烈しい不安を伴《ともな》つた。
美奈子の心の大きな動揺を、夢にも知らない瑠璃子夫人は、この真白な腕首に喰ひ入つてゐる時計を、チラリと見ながら独言のやうに呟いた。
「もう、九時だから、青木さんは屹度《きつと》来ていらつしやるに違ひないわ。」
さうだ! 青年は、停車場で待ち合はせる約束だつたのだ。もう、二三分の後にその人と面と向つて立たねばならぬかと思ふと、美奈子の心は、とりとめもなく乱れて行くのだつた。
が、美奈子は少女らしい勇気を振ひ起して、自分の心持を纏めようとした。あの青年と会つても、取り乱すことのないやうに、出来る丈《だけ》自分の心持を纏めて置かうと思つた。美奈子の心持などに、何の容赦もない自動車は、彼女の心が少しも纏まらない内に、もう彼女を東京駅の赤煉瓦の大きい建物の前に下《おろ》してゐた。
二
美奈子等の自動車の着くのを、先刻《さつき》から待ち受けてゐたかのやうに、駅の群集の間から、五六人の青年紳士が、自動車から降り立つたばかりの、瑠璃子夫人の周囲を取り囲むのであつた。
「お見送りに来たのですよ。」
皆は、口を揃へて云つた。
夫人は軽い快い駭《おどろ》きを、顔に表しながら云つた。
「おや! 何《ど》うして御存じ?」
「はゝゝ、お駭きになつたでせう。お隠しになつたつて駄目ですよ。我々の諜報局には、奥さんのなさることは、スツカリ判つてゐるのですからね。」
外交官らしい、霜降りのモーニングを着た三十に近い紳士が、冗談半分にさう云つた。
「それは驚きましたね、小山さん! 貴君《あなた》間諜《スパイ》でも使つてゐるのぢやないの? おツほゝゝ。」
夫人も華やかに笑つた。
「使つてをりますとも。女中さんなんかにも、気を許しちやいけませんよ。」
「ぢや! 行先も判つて?」
「判つてゐますとも。箱根でせう。而も、お泊りになる宿屋まで、ちやんと判つてゐるのです。」
今度は、長髪に黒のアルパカの上着を着て、ボヘミアンネクタイをした、画家らしい男が、さう附け加へた。
「おや! おや! 誰が内通したのかしら?」
夫人は、当惑したらしい、その実は少しも当惑しないらしい表情でさう答へた。
若い男性に囲まれながら、彼等を軽く扱《あし》らつてゐる夫人の今日の姿は、又なく鮮かだつた。青磁色の洋装が、そのスラリとした長身に、ピツタリ合つてゐた。極楽鳥の翼で飾つた帽子が、その漆のやうに匂ふ黒髪を掩うてゐた。大粒の真珠の頸飾りが、彼女自身の象徴《シンボル》のやうに、その白い滑らかな豊かな胸に、垂れ下つてゐた。
平素《いつも》見馴れてゐる美奈子にさへ、今日の母の姿は一段と美しく見えた。駅の広間《ホール》に渦巻いてゐる群衆の眼も、一度は必ず夫人の上に注がれて、彼等が切符を買つたり手荷物を預けたりする忙がしい手を緩めさせた。
美奈子は、母を囲む若い男性を避けて、一間ばかりも離れて立つてゐた。彼女は、最初その男達の間に、あの青年のゐないのを知つた。一寸期待が外《はづ》れたやうな、安心したやうな気持になつてゐた。その内に、母を見送りの男性は、一人増え二人加つた。が、かの青年は何時まで待つても見えなかつた。その男性達は、美奈子の方には、殆ど注意を向けなかつた。たゞ美奈子の顔を、外《よそ》ながら知つてゐる二三人が軽く会釈した丈《だけ》だつた。
「奥さん! まだ判つてゐることがあるのですがね。」
暫くしてから、紺の背広を着た会社員らしい男が、おづ/\さう云つた。
「何です? 仰しやつて御覧なさい。」
夫人は、微笑しながら、しかも言葉|丈《だけ》は、命令するやうに云つた。
「云つても介意《かま》ひませんか。」
「介意ひませんとも。」
夫人は、ニコ/\と絶えず、微笑を絶たなかつた。
「ぢや申上げますがね。」彼は、夫人の顔色を窺ひながら云つた。「青木君を、お連れになると云ふぢやありませんか。」
それに附け加へて、皆は口を揃へるやうに云つた。
「何です、奥さん。当つたでせう。」
皆の顔には、六分の冗談と四分の嫉妬が混じつてゐた。
「奥さん、いけませんね。貴女は、皆に機会均等だと云ひながら、青木君兄弟にばかり、いやに好意を持ち過ぎますね。」
小山と云ふ外交官らしい男が、冗談半分に抗議を云つた。
美奈子は、母が何と答へるか、ぢつと聞耳を立てゝゐた。
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