子は、これまでの通り、美奈子に取つて母のやうな優しさと姉のやうな親しみとを持つてゐた。が、美奈子は母に、ホンのかすかではあるが、今までに持たなかつたやうな感情を持ち初めてゐた。母の若々しい神々しいほどの美貌が、何となく羨ましかつた。母が男性と、殊にあの青年と、自由に交際《つきあ》つてゐるのが、何となく羨ましいやうに、妬ましいやうに思はれて仕方がなかつた。が、美奈子はさうしたはしたない[#「はしたない」に傍点]感情を、グツと抑へ付けることが出来た。彼女は平素《いつも》の初々しい温和《おとな》しい美奈子だつた。
順々に運ばれる皿数《コーセス》の最後に出た独活《アスパラガス》を、瑠璃子夫人がその白魚のやうな華奢な指先で、掴《つま》み上げたとき、彼女は思ひ出したやうに美奈子に云つた。
「あゝさう/\! 美奈さんに相談しようと思つてゐたの。貴女此夏は何処へ行きませうね。四五日の裡に、何処かへ行かうと思つてゐるの。今日なんかもう可なり暑いのですもの。」
「妾《わたし》、何処だつていゝわ。貴女《あなた》のお好きなところなら何処だつていゝわ。」美奈子は、慎ましくさう云つた。
「軽井沢は去年行つたし、妾《わたし》今年は箱根へ行かうかしらと思つてゐるの、今年は電車が強羅まで開通したさうだし、便利でいゝわ。」
「妾《わたし》箱根へはまだ行つたことがありませんの。」
「それだと尚いゝわ。妾《わたし》温泉では箱根が一番いゝと思ふの。東京には近いし景色はいゝし。ぢややつぱり箱根にしませうね。明日でも、富士屋ホテルへ電話をかけて部屋の都合を訊き合せませうね。」
さう云つて、瑠璃子は言葉を切つたが、直ぐ何か思ひ出したやうに、
「さう/\、まだ貴女《あなた》にお許しを願はなければならぬことがあるの。女手ばかりだと何かに付けて心細いから、男のお友達の方に、一人一緒に行つていたゞかうと思ふの。貴女、介意《かま》はなくつて?」
「介意ひませんとも。」美奈子はさう答へた。もし、昨日の美奈子であつたら、それをもつと自由に快活に答へることが出来たであらう。が、今の美奈子はさう答へると共に、胸が怪しく擾れるのを、何《ど》うともすることが出来なかつた。
「温和《おとな》しい学生の方なの。いろ/\な用事をして貰ふのにいゝわ。」
瑠璃子は、いかにもその学生を子供扱ひにでもしてゐるやうな口調で云つた。
学生と聴くと、美奈子の胸は更に烈しく波立つた。押へ切れぬ希望と妙な不安とが、胸一杯に充ち満ちた。
箱根行
一
「御機嫌よく行つてらつしやいませ。」
玄関に並んだ召使達が、口を揃へて見送りの言葉を述べるのを後にして、美奈子達の乗つた自動車は、門の中から街頭へ、滑かにすべり出した。
乾燥した暑い日が、四五日も続いた七月の十日の朝だつた。自動車の窓に吹き入つて来る風は、それでも稍《やゝ》涼しかつたが、空には午後からの暑気を思はせるやうな白い雲が、彼方此方にムク/\と湧き出してゐた。
美奈子は、母と並んで腰をかけてゐた。前には、母の気に入りの小間使と自分の附添の女中とが、窮屈さうに腰をかけてゐた。
美奈子は、母から箱根行のことを聴かされてから、母が一緒に伴つて行くと云ふ青年のことが、絶えず心にかゝつてゐた。が、母の方からはそれ以来、青年のことは何とも口に出さなかつた。母が口に出さない以上、美奈子の方から切り出して訊くことは、内気な彼女には出来なかつた。
出立の朝になつても、青年の姿は見えなかつた。美奈子は、母が青年を連れて行くことを中止したのではないかとさへ思つた。さう思ふと美奈子は、失望したやうな、何となく物足りないやうな心持になつた。
自動車が、日比谷公園の傍のお濠端を走つてゐる時だつた。美奈子は、やつと思ひ切つて母に訊いて見た。
「あの、学生の方とかをお連れするのぢやなかつたの?」
瑠璃子は、初めて気が付いたやうに云つた。
「さう/\。あの方を美奈さんに紹介して置くのだつたわ。貴女《あなた》まだ御存じないのでせう。」
「はい! 存じませんわ。」
「学習院の方よ。時々制服を着ていらつしやることがあつてよ。気が付かない!」
「いゝえ! 一度もお目にかゝつたことありませんわ。」
「青木さんと云ふ方よ。」
母は何気ないやうに云つた。
「青木さん!」美奈子は一寸|駭《おどろ》いたやうに云つた。「その方は此間、亡くなられたのではございませんの。」
美奈子も、母の男性のお友達の一人なる青木|某《なにがし》が、横死したと云ふことは、薄々知つてゐた。
「いゝえ! あの方の弟さんよ。兄《おあにい》さんは、帝大の文科にいらしつたのよ。」
茲《こゝ》まで聴いたとき美奈子にはもう凡てが、判つてゐた。此の旅行の同伴者が、何人《なんぴと》であるかがもうハツキリと
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