に、軽く打ち振りながら、グン/\急ぎ足で歩いた。
 美奈子は、一体此の青年が、近所のどの家に入るのかと、わざと自分の歩調を緩めながら、青年の後姿を眼で追つてゐた。
 その時に、彼女を駭かすやうな思ひがけないことが、起つた。
「おや! あの方、家へいらつしやるのぢやないかしら。」
 美奈子は、思はずさう口走らずにはゐられなかつた。
 九段の方へグン/\歩いて行くやうに見えた青年は、美奈子の家の前まで行くと、だん/\その門に吸ひ付けられるやうに歩み寄るのであつた。
 青年は、門の前で、ホンの一瞬の間、佇立した。美奈子は、やつぱり通りがかりに、一寸邸内の容子を軽い好奇心から覗くのではないかと思つた。が、佇ずんで一寸何か考へたらしい青年は、思ひ切つたやうに、グン/\家の中へ入つて行つた。ステッキを元気に打ち振りながら。
「お客様ですわ、奥様の。」
 女中は、美奈子の前の言葉に答へるやうに言つた。
 いかにも、女中の言ふ通《とほり》、母の客間《サロン》を訪ふ青年の一人に違ひないことが美奈子にも、もう明かだつた。
「お前、あの方知つてゐるの?」
 美奈子は、心の裡の動揺を押しかくすやうにしながら、何気なく訊いた。
「いゝえ! 存じませんわ。妾《わたくし》はお客間の方の御用をしたことが、一度もないのでございますもの。きくや[#「きくや」に傍点]なら、きつと存じてをりますわ。」
 きくや[#「きくや」に傍点]と云ふのは、母に従《つ》いてゐる小間使の一人だつた。
 美奈子は、兎に角その青年が、自分の家に出入りしてゐると云ふことを知つたことが、可なり大きい欣びだつた。自分の家に出入りしてゐる以上、会ふ機会、知己《しりあひ》になる機会が、幾何《いくら》でも得られると思ふと、彼女の小さい胸は、歓喜のために烈しく波立つて行くのだつた。が、それと同時に、母が前から、その青年と知り合つてゐること、その青年とお友達であることが、不思議に気になり出した。今までは、母が幾何《いくら》若い男性を、その周囲に惹き付けてゐようとも、それは美奈子に取つて、何の関係もないことだつた。が、この青年までが、母の周囲に惹き付けられてゐるのを知ると、美奈子は平気ではゐられなかつた。かすかではあるが、母に対する美奈子の純な濁らない心持が、揺ぎ初めた。
 美奈子が、心持足を早めて、玄関の方へ近づいて見ると、青年は取次が帰つて来るのを待つてゐるのだらう。其処に、ボンヤリ立つてゐた。
 彼は不思議さうに、美奈子をジロ/\と見たが、美奈子が此の家の家人であることに、やつと気が付いたと見え、少し周章《あわて》気味に会釈した。
 美奈子も周章て、頭を下げた。彼女の白いふつくりとした頬は、見る/\染めたやうに真赤になつた。その時に丁度、取次の少年が帰つて来た。青年は待ち兼ねたやうにその後に従《つ》いて入つた。
 美奈子が、玄関から上つて、奥の離れへ行かうとして客間の前を通つたとき、一頻り賑かな笑ひ声が、美奈子の耳を衝いて起つた。今までは、さうした笑ひ声が、美奈子の心を擦《かす》りもしなかつた。本当に平気に聞き流すことが出来た。が、今日はさうではなかつた。その笑ひ声が、妙に美奈子の神経を衝き刺した。美奈子の心を不安にし、悩ました。あの青年と、自由に談笑してゐる母に対して、羨望に似た心持が、彼女の心に起つて来るのを何《ど》うともすることも出来なかつた。

        八

 その日曜の残りを、美奈子はそは/\した少しも落着かない気持の裡に過さねばならなかつた。かの青年が、自分の家の一室にゐることが、彼女の心を掻き擾してしまつたのだ。
 今までは、一度も心に止めたことのない客間《サロン》の方が、絶えず心にかゝつた。青年が母に対してどんな話をしてゐるのか、母が青年にどんな答をしてゐるかと云つたやうなことを、想像することが、彼女を益々不安にさせ、いら/\させた。
 彼女は、到頭部屋の中に、ぢつと坐つてゐられないやうになつて、広い庭へ降りて行つた。気を紛らすために、庭の中を歩いて見たい為だつた。が、庭の中を彼方此方と歩いてゐる裡に、彼女の足は何時の間にか、だん/\洋館の方へ吸ひ付けられて行くのだつた。彼女の眸は、時々我にもあらず、客間《サロン》の縁側《ヴェランダ》の方へ走るのを、何うともすることが出来なかつた。その縁側《ヴェランダ》からは、時々思ひ出したやうに、華やかな笑ひ声が外へ洩れた。若い男性の影が、チラホラ動くのが見えた。が、その人らしい姿は、到頭見えなかつた。
 大抵は、その日の訪問客を引き止めて、華美《はで》に晩餐を振舞ふ瑠璃子であつたが、その日は何うしたのか、夕方が近づくと皆客を帰してしまつて、美奈子とたつた二人|限《き》り、小さい食堂で、平日のやうに差し向ひに食卓に就いた。
 その夜の瑠璃
前へ 次へ
全157ページ中118ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング