美奈子は、満されざる空虚を、心の裡に残しながら、寂しくその墓地の前を通り過ぎた。
彼女は、その途端ふと学校で習つた『株《くひぜ》を守つて兎を待つ』と、云ふ熟語を思ひ出した。約束もしない人が、何うして一定の時日に、一定の場所に来ることがあるだらう。さう思つて来ると、自分の子供らしさが、恥しいと同時に、寂しい頼りない気がした。或は、あれ切りもう一生逢はれない人かも知れない。
彼女は、怏々として、暗いむすぼれた心持で電車に乗つた。今までは楽しく明るい世の中が、何だか急に翳つて来たやうにさへ思はれた。
が、美奈子の乗つた九段両国行の電車が、三宅坂に止まつたとき、運転手台の方から、乗つて来る人を見たとき、美奈子は思はずその美しい目を眸《みは》つた。
六
美奈子が、駭《おどろ》いて目を眸《みは》つたのも、無理ではなかつた。車内へツカ/\と、這入つて来て、彼女の直ぐ斜前へ腰を降ろしたのは、紛れもない、墓地で見た彼の青年であつた。美奈子が二週間もの間、外《よそ》ながらもう一度見たいと思つてゐたあの青年であつた。彼女は、一目見たばかりではあつたが、上品なその目鼻立を見ると、直ぐそれと気が付いた。
その青年に、つい目と鼻の位置に坐られると、美奈子は顔を赧めて、ぢつと俯むいてしまふ女だつた。が、心の裡では思つた、何と云ふ不思議な偶然《チャンス》だらう。その人に逢へると思つた場所では、逢へないで、悄然と帰つて来る電車の中で、ヒヨツクリ乗り合はす。何と云ふ不思議な偶然《チャンス》だらう。さう思ふと同時に、不思議な偶然《チャンス》の向うには、思ひがけない幸福でもが、潜んでゐるやうに思はれて、先刻まで凋れかへつてゐた美奈子の心は、別人のやうに晴れやかに、弾んで来た。が、美奈子は顔を上げて、相手の顔を、ぢつと見詰める丈《だけ》の勇気はなかつた。車台の床に投げられてゐる彼女の視線には、青年が持つてゐる細身の籐のステッキの尖端《はし》だけしか映つてゐなかつた。
あの方は、自分の顔を覚えてゐて呉れるかしら。美奈子はそんなことを、わく/\する胸で、取り止めもなく考へてゐた。兎に角、妹が挨拶をした以上、自分の顔|丈《だけ》位《ぐらゐ》は、覚えてゐて呉れるかしら。覚えてゐて呉れゝば、どんなに幸福であらうかなどと思つたりした。
電車は、直ぐ半蔵門で止つた。もう、自分の家までは二分か三分かの間である。動き出せば直ぐ止る、わづかの距離であつた。美奈子は、もつと/\此の電車に乗つてゐたかつた。さうだ! 青年の乗つてゐる限り、此の電車に乗つてゐたいと思つた。
彼女は、女中をそれとなく先へ降して、神田辺に買物があると云つて、此のまゝずつと乗り続けてゐようかと思つたりした。が、さうした大胆な計画をなすべく、彼女はあまりに純だつた。
その内に、電車はもう半蔵門の停留場を離れてゐた。英国大使館の前の桜青葉の間を、勢よく走つてゐた。美奈子は電車が、平素《いつも》の二倍もの速力で走つてゐるやうに思つた。彼女は、最後の一瞥を得ようとして、思ひ切つて顔を持ち上げた。青年は、此の前見たときと同じやうな白い飛白《かすり》の着物に絽セルらしい袴を穿いてゐた。近く見れば見るほど、貴公子らしい凜々しい面影が、美奈子の小さい胸を圧し付けるやうに、迫つて来るのだつた。美奈子は、此の青年と向ひ合つて坐りながら、もつともつと九段までも両国までも、いな/\もつと遥かに遥かに遠い処まで、一緒に乗つて行きたいやうな、切ない情熱が、胸に湧いて来るのを何うすることも出来なかつた。このまゝ別れてしまふと、また何時会はれるか分らない。二年も三年も、いな一生もう二度と会はれないのではあるまいかなどと思つたりすると、美奈子は、何うしても座席が離れられなかつた。が、女中のすみや[#「すみや」に傍点]は、そんなことは少しも頓着しなかつた。
五番町の停留場の赤い柱が見え出すと、主人よりも先きに立ち上つた。
「参りましたよ。」
彼女は主人を促すやうに云つた。美奈子がそれに促されて、不承々々に席を離れようとしたときだつた。降りさうな気勢《けはひ》などは、少しも見せなかつた青年が、突然立ち上ると男らしい活溌さで、素早く車掌台へ出ると、まだ惰力[#「惰力」は底本では「隋力」]で動いてゐる電車から、軽くヒラリと飛び降りた。
「おや!」女中が、傍《そば》にゐなかつたら、彼女は駭いて声を出したかも知れなかつた。
「御近所の方かしら。」さう思つた美奈子は、電車を降りながら美しい眸を凝して、その後姿を見失ふまいと、眼も放たず見詰めてゐた。
七
美奈子より先に、電車を飛び降りた青年は、その後姿を、ぢつと彼女から見詰められてゐるとは少しも気が付かないやうに、籐の細身のステッキを、眩しい日の光の裡
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