つた。自分の結婚などは、青年にはどうでもよかつたのだ。たゞ、自分が結婚した後に起る筈の、母の再婚を確めるために、自分の結婚を、口にしたのに過ぎないのだ。それとは知らずに、興奮した自分が、恥しくて恥しくて堪らなかつた。彼女の処女らしい興奮と羞恥とは、物の見事に裏切られてしまつたのだ。
彼女は、照つてゐる月が、忽ち暗くなつてしまつたやうな思《おもひ》がした。青年と並んで歩くことが堪らなかつた。彼女の幸福の夢は、忽ちにして恐ろしい悪夢と変じてゐた。
彼女はそれでも、砕かれた心をやつと纏めながら返事だけした。
「妾《わたくし》、母のことはちつとも存じませんわ。」
彼女の低い声には、綿々たる恨《うらみ》が籠つてゐた。
夜の密語
一
青年との散歩が、悲しい幻滅に終つてから、避暑地生活は、美奈子に取つて、喰はねばならぬ苦い苦い韮《にら》になつた。
開きかけた蕾が、さうだ! 周囲の暖かさを信じて開きかけた蕾が、周囲から裏切られて思ひがけない寒気に逢つたやうに、傷つき易い少女の心は、深い/\傷を負つてしまつた。
それでも、温和《おとな》しい彼女は、東京へ一人で帰るとは云はなかつた。自分ばかり、何の理由も示さずに、先きへ帰ることなどは、温和しい彼女には思ひも及ばないことだつた。
彼女は止《とゞ》まつて、而《さう》して忍ぶべく決心した。彼女の苦しい辛い境遇に堪へようと決心した。
青年の心が、美奈子にハツキリと解つてからは、彼女は同じ部屋に住みながら、自分一人いつも片隅にかくれるやうな生活をした。
青年と母とが、向ひ合つてゐるときなどは、彼女は、そつと席を外した。その人から、想はれてゐない以上、せめてその人の恋の邪魔になるまいと思ふ、美奈子の心は悲しかつた。
さう気が付いて見ると、青年の母に対する眸が、日一日輝きを増して来るのが、美奈子にもありあり[#「ありあり」に傍点]と判つた。母の一顰一笑に、青年が欣んだり悲しんだりすることが、美奈子にもありあり[#「ありあり」に傍点]と判つた。
が、それが判れば判るほど、美奈子は悲しかつた。寂しかつた。苦しかつた。
一人の男に、二人の女、或は一人の女に、二人の男、恋愛に於ける三角関係の悲劇は、昔から今まで、数限りもなく、人生に演ぜられたかも判らない。が、瑠璃子と青年と美奈子との三人が作る三角関係では、美奈子|丈《だけ》が一番苦しかつた。可憐な優しい美奈子|丈《だけ》が苦しんでゐた。
「美奈さん! 何《ど》うかしたのぢやないの?」
美奈子が、黙つたまゝ、露台《バルコニー》の欄干に、長く長く倚つてゐるときなど、母は心配さうに、やさしく訊ねた。が、そんなとき、
「いゝえ! どうもしないの。」
寂しく笑ひながら答へる、小さい胸の内に、堪へられない、苦しみがあることは、明敏な瑠璃子にさへ判らなかつた。
青年も、美奈子が、――一度あんなに彼に親しくした美奈子が、又掌を飜《かへ》すやうに、急に再び疎々《うと/\》しくなつたことが、彼の責任であることに、彼も気が付いてゐなかつた。
夕暮の楽しみにしてゐた散歩にも、もう美奈子は楽しんでは、行かなかつた。少くとも、青年は美奈子が同行することを、厭がつてはゐないまでも、決して欣んではゐないだらうと思ふと、彼女はいつも二の足を踏んだ。が、そんなとき、母はどうしても、美奈子一人残しては行かなかつた。彼女が二度も断ると母は屹度《きつと》云つた。
「ぢや、妾《わたし》達も行くのを廃《よ》しませうね。」
さう云はれると、美奈子も不承々々に、承諾した。
「まあ! そんなに、おつしやるのなら参りますわ。」
美奈子は口|丈《だけ》は機嫌よく云つて、重い/\鉛のやうな心を、持ちながら、母の後から、従《つ》いて行くのだつた。
が、ある晩、それは丁度箱根へ来てから、半月も経つた頃だが、美奈子の心は、何時になく滅入つてしまつてゐた。
母が、どんなに云つても、美奈子は一緒に出る気にはならなかつた。その上、平素《いつも》は、青年も口先|丈《だけ》では、母と一緒に勧めて呉れるのが、その晩に限つて、たつた一言も勧めて呉れなかつた。
「妾《わたくし》、今夜はお友達に手紙を書かうと思つてゐますの。」
美奈子は、到頭そんな口実を考へた。
「まあ! 手紙なんか、明日の朝書くといゝわ。ね、いらつしやい。二人|丈《だけ》ぢやつまらないのですもの! ねえ、青木さん!」
さう云はれて、青年は不服さうに肯いた。青年のさうした表情を見ると、美奈子は何うしても断らうと決心した。
二
「でも、妾《わたくし》、今晩だけは失礼させて、いたゞきますわ。一人でゆつくり、お手紙をかきたいと思ひますの。」
美奈子が、可なり思ひ切つて、断るのを見ると、母はさまで
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