にほひ》。
 お墓参りの後の、澄み渡つたやうな美奈子の心持は、忽ち掻き擾《みだ》されてしまつた。彼女ののんびりとしてゐた歩調は、急に早くなつた。彼女の心は、強い力で後へ引かれながら、身体|丈《だ》けは、彼女の意志とは反対に、前へ/\と急いでゐた。丁度、恐ろしいものからでも逃れるやうに。
 彼女の擾れてゐた心が、だん/\和んで来るのに従つて、先刻妹の方から受けた挨拶のことを、考へてゐた。先方は、自分を知つてゐるに違《ちがひ》ない。少くとも、妹の方|丈《だけ》は、自分を知つてゐて呉れるに違ない。が、さうは思つて見るものの、妹が誰であるか何うしても思ひ出されなかつた。
 が、通り過ぎた時に、チラと見た所に依ると、二人が、つい近く失つたばかりの肉親のお墓詣りをしてゐたこと丈《だけ》は、明かだつた。幾本も立つてゐる卒都婆が、どれもこれも墨の匂が新しかつた。
 美奈子は、知人の家で、最近に不幸のあつた家を、それからそれと数へて見た。が、何《ど》うしても兄妹の所属は判らなかつた。
 妹の方が、人違をしたのかも知れない。さう思ふことは美奈子は、何だか淋しかつた。やつぱり、此方《こちら》が思ひ出せないのだ。その中《なか》には、また屹度《きつと》あの人達と顔を合せる機会があるに違ひない。屹度機会が来るに違ひない。
「お嬢様! 何方《どつち》へ行《い》らつしやるのでございます?」
 さう云つて呼び止める女中の声に驚いて、美奈子が我に帰ると、美奈子は右に折れるべき道を、ズン/\前へ、出口のない小径の方へと、進んでゐるところだつた。
「其方《そちら》へいらつしやいますと突き当りでございますよ。」
 さう言ひながら、女中は笑つた。
「おや! おや! 妾《わたし》ぼんやりしてゐたわ。」
 美奈子も、てれかくしに笑つた。
 二人は何時の間にか霞町の方へ近づいてゐた。
「霞町から乗つて、青山一丁目で乗換へすることにいたしませうか。」
 女中の発議に委したやうに、美奈子は黙つて霞町の方へ、だら/\した坂を降つてゐた。心の中では、まだ一心に、その妹の顔と兄の顔とを等分に考へながら。
 塩町行の電車の昇降台の棒に、美奈子が手をかけたとき、彼女は低く、
「あゝさう/\!」と、自分自身に言つた。
 彼女は、やつと妹を思ひ出した。お茶の水で確か三年か二年か下の級にゐた人だ。さうさう! 先刻《さつき》見たときバンドをしてゐたのをスツカリ忘れてゐた。向うでは此方《こつち》の顔|丈《だけ》を覚えてゐて呉れたのだ。さう思ふと、美奈子は兄妹に対して一入《ひとしほ》なつかしい心が湧いて来た。

        四

 少女の顔|丈《だけ》は、やつと思ひ出したけれども、名前は何《ど》うしても思ひ出せなかつた。家へ帰つてからも、美奈子は、お茶の水にゐた頃の校友会雑誌の『校報』などを拡げて、それらしい名前を、思ひ出さうとしたけれども、やつぱり徒爾《むだ》だつた。
 自分ながら、何うしてあの兄妹に、不思議に心を惹かされるのか、美奈子には分らなかつた。が、兄の方の白い横顔や、妹の会釈した時の微笑などが何うしても忘れられなかつた。自分にも、あんなに親しい兄があつたら、兄の勝彦が、もう少し普通の人間であつたら、などと取り止めもないことを、考へながら、やつぱり忘れられないのは、一目顔を見合はせた丈《だけ》の兄妹だつた。否、本当に忘れられないのは、兄の方一人|丈《だけ》だつたかも知れない。たゞ兄を想ひ出すごとに、妹は影の形に伴ふごとく、彼女の記憶の裡に、甦つて来るのかも知れなかつた。異性の兄の方|丈《だけ》を考へることは、彼女の慎しい処女性が、彼女自身にそれを許さなかつた。彼女は、自身でも兄妹のことを考へてゐるやうに、言訳しながら、本当に兄|丈《だけ》のことを考へてゐたのかも知れなかつた。
 美奈子は、兄の方の美しい凜々しい姿を、心の裡で、ぢつと噛みしめるやうに、想ひ出してゐるとほの/″\と夜の明けるやうに、心の裡に新しい望《のぞみ》や、新しい世界が開けて行くやうに思つた。今まで夢にも知らなかつたやうな、美しい世界が開けて行くやうに思つた。
 が、それと一緒に、兄妹の名前が、ハツキリと知れないことが、寂しかつた。あの時に、偶然逢つたばかりで、今後永く/\、否一生逢はずに終るのではないかと思つたりすると、淡い掴みどころのないやうな寂しさが、彼女の心を暗くしてしまふのだつた。
 彼女は、新しい望みと、寂しさとを一緒に知つたと云つてもよかつた。否彼女の心の少女らしい平和は、永久に破られたと云つてもよかつた。
 美奈子は、以前よりも温和《おとな》しい、以前よりも慎しい少女になつてゐた。
 その裡に、彼女の心にも、少女らしい計画《プラン》が考へられてゐた。さうだ! 此の次の日曜にも、お墓詣りをして見よう。もし、
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