なども多かつた。
小さい子供を連れて、亡き夫のお墓に詣るらしい若い未亡人や、珠数を手にかけた大家の老夫人らしい人にも、行き違つた。
荘田家の墓地は、あの有名なN大将の墓から十間と離れてゐないところにあつた。美奈子の母が死んだ時、父は貧乏時代を世帯の苦労に苦しみ抜いて、碌々夫の栄華の日にも会はずに、死んで行つた糟糠の妻に対する、せめてもの心やりとして、此処に広大な墓地を営んだ。無論、自分自身も、妻の後を追うて、直ぐ其処に埋められると云ふことは夢にも知らないで。
亡き父の豪奢は、周囲を巡つてゐる鉄柵にも、四辺《あたり》の墓石を圧してゐるやうな、一丈に近い墓石にも偲ばれた。
美奈子は、女中が水を汲みに行つてゐる間、父母の墓の前に、ぢつと蹲りながら、心の裡で父母の懐しい面影を描き出してゐた。世間からは、いろ/\に悪評も立てられ、成金に対する攻撃を、一身に受けてゐたやうな父ではあつたが、自分に対しては、世にかけ替のない優しい父であつたことを思ひ出すと、何時ものやうに、追慕の涙が、ホロ/\と止めどもなく、二つの頬を流れ落ちるのだつた。
女中が、水を汲んで来ると、美奈子は、その花筒の古い汚れた水を、浚乾《かへほ》してから、新しい水を、なみなみと注ぎ入れて、剪り取つたまゝに、まだ香《かほり》の高い白百合の花を、挿入れた。かうしたことをしてゐると、何時の間にか、心が清浄《しやうじやう》に澄んで来て、父母の霊が、遠い/\天の一角から、自分のしてゐることを、微笑みながら、見てゐて呉れるやうな、頼もしいやうな懐しいやうな、清々しい気持になつてゐた。
美奈子は、花を供へた後も、ぢつと蹲まつたまゝ、心の中で父母の冥福を祈つてゐた。微風が、そよ/\と、向うの杉垣の間から吹いて来た。
「ほんたうに、よく晴れた日ね。」
美奈子は、やつと立ち上りながら、女中を見返つてさう云つた。
「左様でございます。ほんたうに、雲の片《かけ》一つだつてございませんわ。」
さう云ひながら、女中は眩しさうに、晴れ渡つた夏の大空を仰いでゐた。
「そんなことないわ。ほら、彼処《あすこ》にかすつたやうな白い雲があるでせう。」
美奈子も、空を仰ぎながら、晴々しい気持になつてさう云つた。が、美奈子の見附けたその白いかすかな雲の一片を除いた外は、空はほがらかに何処までも晴れ続いてゐた。
「今日は余りいゝお天気だから直ぐ帰るのは惜しいわ。ぶら/\散歩しながら、帰りませう。」
さう云ひながら、美奈子は女中を促して、懐しい父母の墓を離れた。
何時もは、歩き馴れた道を、青山三丁目の停留場に出るのであつたが、其日は清い墓地内を、当もなくぶら/\歩くために、わざと道を別な方向に選んだ。
自分の家の墓地から、三十間ばかり来たときに、美奈子はふと、美しく刈り込まれた生籬《いけがき》に囲まれた墓地の中に、若い二人の兄妹《きやうだい》らしい男女が、お詣りしてゐるのに気が付いた。
美奈子は、軽い好奇心から、二人の容子を可なり注意して見た。兄の方は、二十三四だらう。銘仙らしい白い飛白《かすり》に、袴を穿いて麦藁の帽子を被つた、スラリとした姿が、何処となく上品な気品を持つてゐた。妹はと見ると、まだ十五か十六だらう、青味がかつた棒縞のお召にカシミヤの袴を穿いた姿が、質素な周囲と反映してあざやかに美しかつた。
美奈子達が、段々近づいてその墓地の前を通り過ぎようとしたとき、ふと振り返つた妹は、美奈子の顔を見ると、微笑を含みながら軽く会釈した。
三
妹らしい方から会釈されて、美奈子も周章《あわ》てながら、それに応じた。が、相手が誰だか、容易に思ひ出せなかつた。長い睫に掩はれたその黒い眸を、何処かで見たことのあるやうに思つた。が、それが何《ど》うしても美奈子には思ひ出せなかつた。
「人違ひぢやないのかしら。」
さう思つて、美奈子は一寸顔を赤くした。
が、美奈子がその墓地の前を通り過ぎようとして、二度《ふたたび》その兄妹らしい男女を見返つたとき、今度は兄の方が、美奈子の方を振り返つてゐた。恐らく妹が、挨拶したので、一寸した興味を持つた為だらう。美奈子の眸は、当然その青年の顔を、正面から見た。その刹那美奈子は、若い男性と、咄嗟に顔を見合はした恥かしさに、弾かれたやうに、顔を元に返した。
それはホンの一瞬の間だつた。が、その一瞬の間に一目見た青年の顔は、美奈子の心に、名工が鑿を振つたかのやうに、ハツキリと刻み付けられてしまつた。
彼女は、今まで異性の顔に、自分から注意を向けたことなどは、殆どなかつた。が、今見た青年の顔は、彼女の注意の凡てを、支配するやうな不思議な魅力を持つてゐた。
白いくつきりとした顔、妹によく似た黒い眸、凜々しく引きしまつた唇、顔全体を包んでゐる上品な匂《
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