た。
「さうです。それはさうかも知れません。が、貴女《あなた》が貴女の考へに依つて生きる自由があるやうに、僕も僕の考へを実行する自由を主張するのです。奥さん! 青木君の弟を、あなたの脅威から救ふことに、僕は相当の力を尽すつもりです。それは死んだ青木君に対する僕の神聖な義務だと思ふのです。」
「どうか、御随意に。」夫人は、冷然と云つた。
「青木さんの弟に取つては、本当に有難迷惑だとは思ひますが、然し止むを得ませんわ。貴君が躍起になつた御忠告が、あの方の妾《わたくし》に対するお心を、どの位醒させるか、ゆつくり拝見したいと思ひますわ。」
 夫人は、最後の止めを刺すやうに、高飛車に冷然と笑ひながら、云ひ放つた。


 初恋

        一

 瑠璃子夫人は、あの太陽に向つて、豪然と咲き誇つてゐる向日葵《ひまはり》に譬へたならば、それとは全く反対に、鉢の中の尺寸の地の上に、楚々として慎やかに花を付けるあの可憐な雛罌粟《ひなげし》の花のやうな女性が、夫人の手近にゐることを、人々は忘れはしまい。それは云ふまでもなく、彼の美奈子である。
 父の勝平が死んだとき十七であつた美奈子は、今年十九になつてゐた。その丸顔の色白の面《おもて》は、処女そのものの象徴のやうな、浄さと無邪気《あどけなさ》とを以て輝いてゐた。
 男性に対しては、何の真情をも残してゐないやうな瑠璃子夫人ではあつたが、彼女は美奈子に対しては母のやうな慈愛と姉のやうな親しさとを持つてゐた。
 美奈子も亦、彼女の若き母を慕つてゐた。殊に、兄の勝彦が父に対する暴行の結果として、警察の注意のため、葉山の別荘の一室に閉ぢ込められた為に、彼女の親しい肉親の人々を凡て彼女の周囲から、奪はれてしまつた寂しい美奈子の心は、自然若い義母に向つてゐた。若き母も、美奈子を心の底から愛した。
 二人は、過去の苦い記憶を悉く忘れて、本当の姉妹のやうに愛し合つた。瑠璃子が、勝平の死んだ後も、荘田家に止まつてゐるのは、一つは、美奈子に対する愛のためであると云つてもよかつた。この可憐な少女と、その少女の当然受け継ぐべき財産とを、守つてやらうと云ふ心も、無意識の裡に働いてゐたと云つてもよかつた。
 従つて瑠璃子は、美奈子を処女らしく、女らしく慎しやかに育てゝ行くために、可なり心を砕いてゐた。彼女は彼女自身の放縦な生活には、決して美奈子を近づけなかつた。
 彼女を追ふ男性が、蠅のやうに蒐まつて来る客間《サロン》には、決して美奈子を近づけなかつた。
 従つて、美奈子は母の客間に、どんな男性が蒐まつて来るのか、顔|丈《だけ》も知らなかつた。無論紹介されたことなどは、一度もなかつた。たゞ門の出入などに、さうした男性と、擦れ違ふことなどはあつたが、たゞ軽い黙礼の外は口一つ利かなかつた。
 母が日曜の午後を、華麗な客間《サロン》で、多くの男性に囲まれて、女王のやうに振舞つてゐるのを外《よそ》に、美奈子は自分の離れの居間に、日本室の居間に、気に入りの女中を相手に、お琴や挿花のお復習《さらひ》に静かな半日を送るのが常だつた。
 時々は、客間に於ける男性の華やかな笑ひ声が、遠く彼女の居間にまで、響いて来ることがあつたが、彼女の心は、そのために微動だにもしなかつた。さうした折など、女中達が、瑠璃子夫人の奔放な、放恣な生活を非難するやうに、
「まあ! 大変お賑かでございますわね。奥様もお若くていらつしやいますから。」
 などと、美奈子の心を察するやうに、忠勤ぶつた蔭口を利く時などには、美奈子は、その女中をそれとなく窘《たしな》めるのが常だつた。
 が、日曜の午後を、彼女はもつと有意義に過すこともあつた。それは、青山に在る父と母とのお墓にお参りすることであつた。
 彼女は、女中を一人連れて、晴れた日曜の午後などを、わざと自動車などに乗らないで、青山に父母の墓を訪ねた。
 彼女は夢のやうな幼い時の思出などに耽りながら、一時間にも近い間、父母の墓石の辺《あたり》に低徊してゐることがあつた。
 六月の終りの日曜の午後だつた。その日は死んだ母の命日に当つてゐた。彼女は、女中を伴つて、何時ものやうにお墓参りをした。
 墓地には、初夏の日光が、やゝ暑くるしいと思はれるほど、輝かしく照つてゐた。墓地を劃《しき》つてゐる生籬《いけがき》の若葉が、スイ/\と勢ひよく延びてゐた。美奈子は裏の庭園で、切つて来た美しい白百合の花を、右手《めて》に持ちながら、懐しい人にでも会ふやうな心持で、墓地の中の小道を幾度も折れながら、父母の墓の方へ近づいて行つた。

        二

 晴れた日曜の午後の青山墓地は、其処の墓石の辺にも、彼処《かしこ》の生籬の裡にも、お墓詣りの人影が、チラホラ見えた。
 清々しく水が注がれて、線香の煙が、白くかすかに立ち昇つてゐるお墓
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