くつても、又なにか別なことで、直ぐ自殺してしまふ方ですもの。」
 信一郎は、夫人の言葉を聴いてゐる中に、それを夫人の捨鉢な不貞腐《ふてくされ》の言葉ばかりだとは、聞きながされなかつた。彼は、その美しい夫人の裡に、如何なる男性にも劣らないやうな、鋭い理智と批判とを持つた一個の新しい女性、如何なる男性とも、精神的に戦ひ得るやうな新しい強い女性を認めたのである。
 彼の夫人に対する憎悪は、三度四度目に、又ある尊敬に変つてゐた。旧道徳の殻を踏み躙つてゐる夫人を、古い道徳の立場から、非難してゐた自分が、可なり馬鹿らしいことに気が付いた。
 夫人の男性に対する態度は、彼女の淫蕩な動機からでもなく、彼女の妖婦的な性格からでもなく、もつと根本的な主義から思想から、萌してゐるのだと思つた。
「妾《わたくし》、男性がしてもよいことは、女性がしてもよいと云ふことを、男性に思ひ知らしてやりたいと思ひますの。男性が平気で女性を弄ぶのなら、女性も平気で男性を弄び得ることを示してやりたいと思ひますの。妾《わたくし》一身を賭して男性の暴虐と我儘とを懲《こら》してやりたいと思ひますの。男性に弄ばれて、綿々の恨みを懐いてゐる女性の生きた死骸のために復讐をしてやりたいと思ひますの。本当に妾《わたくし》だつて、生きた死骸のお仲間かも知れませんですもの。」
 さう云ひながら、夫人は一寸頭をうなだれた。緊張し切つてゐた夫人の顔に、悲しみの色が、サツと流れた。

        六

 物凄いと云つてよいか、死身と云つてよいか、兎に角、烈々たる夫人の態度は、信一郎の心を可なり振盪した。
 これほどまで、深い根拠から根ざしてゐる夫人の生活を、慣習的な道徳の立場から、非難しようとした自分の愚かさを、信一郎はしみじみと悟ることが出来た。夫人をして彼女の道を行かしめる外はない。縦令《たとひ》、その道が彼女を、どんな深淵に導かうとも、それは彼女に取つて覚悟の前の事に違ひない。多くの男性を飜弄した報いのために、縦令彼女自身を亡ぼすとも、それは、彼女としては、主義に殉ずることであり、男性に対する女性の反抗の犠牲となることなのだ。
「いや! 奥さん、僕は貴女のお心が、始めて解つたやうに思ひます。僕はそのお心に賛成することは出来ませんが、理解することは出来ます。貴女に忠告がましいことを言つたのを、お詫《わび》します。貴女が、一身を賭して、貴女の思ひ通り、生活なさることを、他からかれこれ云ふことの愚さに気が付きました。が、奥さん、僕は、今お暇する前に、たつた一つ丈お願ひがあるのです。聴いて下さるでせうか。」
「どんなお願ひでございませうか。妾《わたくし》にも出来ることでございましたら。」
 信一郎が夫人の本心を知つてから、可なり妥協的な心持になつてゐるのにも拘はらず、夫人の態度の険しさは、少しも緩んでゐなかつた。
「外でもありません。先刻も申しました通り、青木君の弟|丈《だけ》を、貴女の目指す男性から除外していたゞきたいと思ふのです。青木君の死をまざ/\と知つてゐる丈《だけ》、あの方の弟までが、貴女の客間《サロン》に出入することは、僕の心を暗くするのです。青木君の死の責任が孰《どち》らにありませうとも、青木君が貴女《あなた》を恨んで死んだ以上、青木君の弟に対して丈《だけ》は、慎んでいたゞきたいと思ふのです。」
「貴君《あなた》は、御忠告をなさらないと云ふ口の下から、またさう云ふことを仰しやつていらつしやるのですね。」さう云ひながら、遉《さすが》に夫人は一寸苦笑ともなく微笑ともなく笑つた。「自分の生活|丈《だけ》を自分の思ひ通《どほり》にしようとするものは、利己主義ではない、他人の生活をまで、自分の思ひ通《どほり》にしようとするものこそ、本当の利己主義だと、ある人が申しましたが、貴君などこそ、本当の利己主義でいらつしやいますわね。青木さんの弟が妾《わたくし》を慕つていらつしやるとする。さう仮定したとしても、それがあの方としては、一番本当の生活ぢやございませんでせうかしら。それが、あの方として一番本当の生き方ぢやございませんかしら。さう云ふ他人の真剣な生活を、貴君が傍《はた》から心配なさることは少しもないと思ひますわ。妾《わたくし》のために、あの方が、一身を犠牲にするやうな事があつたとしても、あの方としては一番本当の生き方をしたと云ふ事になりは致しませんでせうか。」
 夫人の考へ方は、凡ての妥協と慣習とを踏み躙つてゐた。
「果してそんなものでせうか。僕は断じてさうは思ひません。」
 信一郎は可なり激しく、抗議せずにはゐられなかつた。
「それは、銘々の考へ方の違《ちがひ》ですわ。妾《わたくし》は、妾《わたくし》の考へ方に依つて生きる自由を持つてゐます。」
 夫人は、この長い激論を打ち切るやうに云つ
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