、恐らく今の場合の夫人の心を云ふのだらう。鬼が出るか蛇が出るか分らないそのノートを、受け取りながら、一糸|紊《みだ》れたところも、怯《ひる》んだところも見せなかつた。
「おや、青木さんのノートでございますのね。」
 夫人は、平然と云ひながら、最初の頁《ページ》から繰り初めた。繰つてゐるその白い手は、落着きかへつてゐる。
 が、信一郎は思つた。今に見ろ、どんなに白々しい夫人でも、血で書いた青木淳の忿恨の文字に接すると、屹度良心の苛責に打たれて、女らしい悲鳴を挙げる。彼女の孔雀の如き虚飾の驕りを擾されて、女らしく悔恨に打たれるに違ひない。さう思ひながら、頁《ページ》を繰る夫人の手許と、やゝ蒼んでゐる美しい面から、一瞬も眼を放たず、ぢつと見詰めてゐた。
 その裡に、夫人はハタと、青木淳が書き遺した文字を見付けたらしい。遉《さすが》に美しい眸は、卓の上に開かれたノートの頁《ページ》の上に、釘付にされたやうに、止つてしまつた。
 美しい面が、最初薄赤く興奮して行つた。が、それがだん/\蒼白になり、唇の辺りが軽く痙攣するやうに動いてゐた。
 夫人が、深い感動を受けたことは、明かだつた。信一郎は、今にも夫人が、ノートの上に瓦破《ぐわば》と泣き伏すことを予期してゐた。泣き伏しながら、非業に死んだ青年の許しを乞ふことを想像した。彼女の美しい目から、真珠のやうな涙が、ハラ/\と迸しることを待つてゐた。悔恨と懺悔との美しい涙が。
 が、信一郎の予期は途方もなく裏切られてしまつた。一時動揺したらしい夫人の表情は、直ぐ恢復した。涙などは、一滴だつて彼女の長い睫をさへ湿《うるほ》さなかつた。
 彼女は、一言も云はずに、ノートを信一郎の方へ押しやつた。
 信一郎は、夫人の必死的《デスペレート》な態度に圧せられて、此の上何か云ふ勇気をさへ挫かれた。
 二人は、二三分の間、黙々として相対してゐた。信一郎は、その険しい重くるしい沈黙に堪へかねた。
「如何です。此のノートを読んで、貴女は何ともお考へにならないのですか。」
 信一郎の声の方が、却つてあやしい顫へをさへ帯びてゐた。
 夫人は、黙して答へなかつた。
 信一郎は、畳みかけて訊いた。
「貴女は、青木君が血を以て書いた、此のノートを読んで、何ともお考へにならないのですか。青木君の云ひ草ぢやないが、貴女の少しでも残つてゐる良心は、此のノートを読んで、顫ひ戦かないのですか。貴女の戯れの作つた恐ろしい結果に戦慄しないのですか。」
 信一郎は、可なり興奮して突きかゝつた。
 が、夫人は冷然として、氷の如く冷かに黙つてゐた。
「奥さん! 黙つていらしつては分りません。貴女は! 貴女は此ノートを読んで何ともお考へにならないのですか。」
 信一郎は、いらだつて叫んだ。
「考へないことはありませんわ。」
 彼女の沈黙が冷かな如く言葉そのものも冷かであつた。
「お考へになるのなら、そのお考へを承はらうぢやありませんか。」
 信一郎は益々いらだつた。
「でも、死んだ方に悪いのですもの。」
「死んだ方に悪い! 貴女はまだ死者を蔑まうとなさるのですか。死者を誣《し》ひようとなさるのですか。」
 信一郎は火の如く激昂した。
 その激昂に、水を浴びせるやうに夫人は云つた。
「でも、妾《わたくし》、此ノートを読んで考へましたことは、青木さんも普通の男性と同じやうに、自惚れが強くて我儘であると云ふこと丈《だけ》ですもの。」

        四

 夫人の言葉は、信一郎を唖然たらしめた。彼は呆気に取られて、夫人の美しい冷かな顔を見詰めてゐた。どんな妖婦でも、昔の毒婦伝に出て来るやうな恐ろしい女でも、自分を恨んで死んだ男の遺書《かきおき》を、かうまで冷酷に評し去る勇気はないだらう。自分を恨んでゐる、血に滲んだ言葉を自惚れと我儘だと云つて評し去る女はないだらう。
 が、一時の驚きが去ると共に、信一郎の心に残つたものは、夫人に対する激しい憎悪だつた。女ではない。人間ではない。女らしさと、人間らしさとを失つた美しい怪物である。その人を少しでも人間らしく考へた自分が、間違つてゐたのだ。彼は心の中で憎悪を吐き捨てるやうに云つた。
「いやもう、なにも言ひたくありません。貴女は、貴女のお考へで、男性を弄ぶことをおつゞけなさい! その中に、純真な男性の怒《いかり》が、貴女を粉微塵に砕く日が来るでせう。」
 信一郎は、床を踏み鳴らさんばかりに、激昂しながら、叫んだ。
 が、信一郎が激すれば、激するほど、夫人は冷静になつて行つた。彼女は、冷たい冷笑をさへ頬の辺りに、浮べながら、落着き返つて云つた。
「男性を弄ぶ! 貴君《あなた》は、女性が男性を弄ぶことを、そんなに恐ろしい罪悪のやうに考へていらつしやるのですか。だから、妾《わたくし》が男性の我儘だと云ふのですわ。
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