心から敬慕してゐるものです。が、僕は貴女がさうした天分や教養を邪道に使つてゐるのを見ると、本当に心が暗くなるのです。僕は青木君の為にばかりでなく、貴女自身のために、僕の云つたことをよく玩味していたゞきたいと思ふのです。」
 かう信一郎が、述べ来つた時、今まで傾聴してゐるやうな態度をしてゐた夫人は、つと頭を上げた。
「あの、お言葉中で恐れ入りますが、御忠告なら、御免を蒙りたいと思ひます。御用事|丈《だけ》を承はる筈であつたのでございますから。」
 鋼鉄のやうな凜とした冷たさが、その澄んだ声の内に響いてゐた。

        二

『御忠告ならば、御免を蒙る。』と、夫人がきつぱりと云ひ放つのを聴くと、信一郎は夫人に対して、最後の望みを絶つた。青木淳は、『僅に残つてゐる良心』と、書いてゐる。が、僅に残つてゐる良心どころか良心らしいものは、片《かけら》さへ残つてゐない。女らしい、つゝましい心の代りに、そこに翼を拡げてゐるものは、恐ろしい吸血鬼《ヴァンパイヤ》である。純真な男性の血を好んで嗜なむ怪物である。夫人の良心に訴へて、少しでも彼女を、いゝ方に改めさせてやらうと思つたのは、悪魔に基督《キリスト》の教を説くやうなものであると思つた。
 信一郎は外面如菩薩と云ふ古い言葉を、今更らしく感心しながら、暫らくは夫人の顔を、ぢつと見詰めてゐたが、
「いや、これは飛んだ失礼をしました。青木君の遺言|丈《だけ》を伝へれば、僕の責任は尽きてゐたのでした。」
 彼は、さう云つて潔く此部屋から出ようとした。が、その時に、彼は青木淳の弟の姿を思ひ浮べた。さうだ! あの青年を、夫人の危険から救つてやることは、自分の責任だと思つた。
「だが、奥さん! 僕は僕の責任として、貴女にもう一言云はなければならぬことがあるのです。これは貴女に対するおせつかいな忠告ぢやないのです。青木君に対する僕の責任の一部として、申し上げるのです。畢竟は青木君の遺言の延長として申上げるのです。それは、外でもありません。貴女が如何なる男性の感情を、どんなに弄ばうが、それは貴女の御勝手です。いや御勝手と云ふことにして置きませう。だが、青木君の弟の感情を、弄ぶこと丈《だけ》は、僕が青木君に代つて、断然お断りして置きます。まさか、貴女も少しでも、人情がお有りでしたら、兄を深淵へ突き陥した後で、その肉親の弟をも、同じ処へ突き陥すやうな残酷なことはなさるまいとは思ひますけれども、念のためにお願して置くのです。いやどうもお邪魔しました。」
 夫人の顔が、遉《さすが》に蒼白に転ずるのを尻目にかけながら、信一郎は、素早く部屋を出ようとした[#「出ようとした」は底本では「出ようした」]。が、それを見ると、夫人は屹となつて呼び止めた。
「渥美さん! お待ちなさい!」
 その凜とした声には、女王のやうな威厳が備はつてゐた。
「貴君《あなた》は、自分の仰しやることさへ仰しやつてしまへば、それでお帰りになつてもいゝとお考へになるのですか。貴君が、妾《わたくし》に御用事がある中は、貴君《あなた》に帰る権利が、妾《わたくし》になかつたやうに、妾《わたくし》が貴君に申上げることが残つてゐる以上|貴君《あなた》はお帰りになる権利はありません。妾《わたくし》は一言|丈《だけ》貴君《あなた》に申上げることが残つてゐます。」
 美しい眉は吊り上り、黒い眸は、血走つてゐた。信一郎を、屹と見詰めて立つてゐる姿は、『怒れる天女』と云つたやうな、美しさと神々しさとがあつた。
「貴君《あなた》は、今青木さんの遺言とやらを、長々しく仰しやいましたが、それを妾《わたくし》が受けると思つていらつしやるのですか。時計こそ、お受けしましたが、そんな御遺言なんか、一言半句だつて、お受けする覚えはありません。そんなお言伝を、青木さんから承はるやうな覚えは、さら/\ありません。今承はつたお言葉全部を、そのまゝ御返上します。」
 夫人の声にも、憎みと怒りとが、燃えてゐた。が、信一郎はたぢろがなかつた。
「死人に口がないと思つて、そんなことを仰しやつては困ります。貴女を、今日訪問した客に村上と云ふ海軍大尉があつた筈です。まさか、ないとは仰しやいますまいね。」
「よく御存じですね。」
 夫人は、平然として答へた。
「それなら、青木君の遺言を受ける責任と義務とがあります。貴女に、もし少しでも良心が残つていらつしやるのなら、今貴君にお目にかけるものを、平然と読めるかどうか試して御覧なさい!」
 さう云ひながら、信一郎はポケットに曲げて入れてゐたノートを夫人の眼前に突き付けた。

        三

 信一郎が、眼の前に突き付けたノートを、夫人は事もなげに受取つた。ノートの重さにも堪へないやうな華奢な手で、それを無造作に受け取つた。
 鋼鉄の如き心と云ふのは
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