受取つていたゞくのです。貴女は、此の品物を当然受取るべきお心覚えがあるでせう。ないとは、まさか仰しやれないでせう。」
信一郎も、女性に対する凡ての遠慮を捨てゝゐた。二人は男女の性別を超えて、格闘者として、相対してゐた。
信一郎に、さう云ひ切られると、夫人は暫らく黙つてゐた。白い瓢《ひさご》の種のやうな綺麗な歯で、下唇を二三度噛んだがやがて気を換へたやうに、
「それでは、貴君《あなた》は此時計の元の持主を、妾《わたくし》だと仰しやるのですか。」
「さうです。それを確信してもよい理由があるのです。」信一郎は凜としてさう云ひ放つた。
「おやさう!」夫人は事もなげに応《う》けながら、「貴君が、さうお考へになりたければ、さうお考へになつても、別に差支はございませんよ。それでは、この時計もお受取りして置かうぢやありませんか。どうせ一度は、お預かりした品物ですもの。」
夫人の態度は、愈《いよ/\》逆になり、愈々《いよ/\》毒を含んでゐた。
「それで、御用事と仰しやるのはこれ丈《だけ》!」
夫人は信一郎と一刻でも長く同席することが不快で堪らないやうに急き立てるやうに附け加へた。
信一郎は、夫人の自分に対する烈しい憎悪に傷きながら、しかも勇敢に彼の陣地を支へた。
「いや、大変お手間を取らして相済みません。が、もう一言、さうです、青木君の言伝があるのです。時計の元の持主にかう伝へて呉れと頼まれたのです。」
信一郎は、さう云つて言葉を切つた。
夫人は遉《さすが》に、緊張した。やさしく烟つてゐる眉を、一寸|顰《しか》めながら、信一郎が何を云ひ出すかを待つてゐるやうだつた。
彼女の云分
一
遺言と云つても、信一郎は青木淳の口づから受けてゐるのではない。が、彼は青木淳の死前の恨《うらみ》の籠つたノートを受け継いでゐる。
『彼女の僅かに残つてゐる良心を恥かしめてやる』べき、以心伝心の遺託を、受けてゐるのだつた。
「いや、遺言と云つても、外ではありません。この時計を返すときに元の持主にかう云つて呉れと頼まれたのです。青木君が瀕死の重傷に苦しみながら、途切れ/\に云つたことですから、ハツキリとは分りませんが、何でもかう云ふ意味だつたと思ふのです。純真な男性の感情を弄ぶことがどんなに危険であるかを伝へて呉れ。弄ぶ女に取つては、それは一時の戯れであるかも知れぬが、弄ばれる男に取つては、それが死であると。奥さん! 貴女《あなた》は、かう云ふ話を御存じですか。池の中に多くの蛙が浮んでゐると、子供達が来て石を投げ付ける、その時に蛙が何て云つたか御存じですか。蛙はかう云つたのです。貴君《あなた》方に取つて遊戯であることが、我々に取つては死である、と。青木君の死際の云分も、つまりそれなのです。貴女《あなた》は、青木君の死を単なる奇禍だと思つてはいけません。形は奇禍ですが、心持に於いては立派な自殺です。たゞ自動車の偶然の衝突があの人の死を、二三日早めたのに過ぎないのです。貴女は青木君の死を奇禍だと考へることに依つて、貴女の良心を欺いてはなりません。正《まさ》しく自殺です。而も池の中の蛙が、子供が戯れに投げた石に当つて死んだやうに、貴女が戯れに与へた白金《プラチナ》の時計に依つて死んだのです。蛙が若《も》し人間としての働きがあつたならば、その石を子供に投げ返すやうに、僕は青木君に代つて、此の時計を貴女に投げ返すのです。さうです、貴女の良心に向つて投げ返すのです。貴女の心に僅かにでも、良心が残つてゐるのなら、貴女はそれで此の時計を受け止めて下さい。さうしてその受け止めた痛みに依つて、貴女の心を浄めていたゞきたいと思ふのです。さうして、男性に対する貴女の危険な戯れを、今日限り廃《よ》していたゞきたいと思ふのです。それが青木君の死に対する貴女のせめてもの償ひです。僕が、先刻貴女のお戯れの相手をするのは危険だと云つたのはかう云ふ意味です。青木君の場合はまだ独身ですから、貴女の戯れの犠牲になるものは一人で済むのですが、僕のやうな既婚者の場合は被害者が複数ですからね。」
信一郎の興奮は、彼を可なりな雄弁家にしてしまつた。夫人はと見ると、遉《さすが》に彼の言葉が一々肺腑を衝いてゐると見えて、うなだれ気味に、黙々と聴いてゐた。信一郎は、自分の心が、少しでも夫人の心を悔い改めしめてゐるかと思ふと、内心ある感激を感ぜずにはゐられなかつた。さうだ! 此の美しき女性をたゞ恥かしめる丈《だけ》が、能ではない。自分の言葉に依つて、夫人の心を、少しでも浄くし改めてやりたいと思つた。
「いや! 奥さん。僕は何も貴女《あなた》に恩怨があるのではありません。恩怨がないばかりでなく、ある点では貴女を敬慕してゐるものです。貴女のその秀れた美しさと、貴女の教養や趣味に対して、
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