いてゐた。
「あら、あれは妾《わたくし》にお預けして下さつたのぢやないのですか。一旦お預けして下さつた以上、男らしくもないぢやありませんか。また返せなどと仰しやるのは。」
信一郎を揶揄《からか》つてゐるやうに、冷かしてゐるやうに、夫人の語気は、ます/\辛辣になつて行つた。
「いや、お預けしたことは、お預けしました。が、それは返すべき相手が分らなかつたからです。また、何《ど》う云ふ心持で返すのかが、分らなかつたからです。今こそ、返すべき女性がハツキリと分つたのです。また、何う云ふ態度で、あの時計を返すべきかも、ハツキリと分つたのです。僕は、あの時計を貴女から返していたゞいて、その本当の持主に、一番適当な態度で、返さねばならぬ責任を青木君に対して、感じてゐるのです。どうか直ぐお返しを願ひたいと思ひます。」
夫人の顔は、遉《さすが》に少しく動揺した。が、信一郎が予想してゐたやうに、狼狽の容子は露ほども見せなかつた。
「そんなに、面倒臭い時計なのですか、それぢや、お預りするのではなかつたわ。それぢや只今直ぐお返しいたしますわ。」
夫人は、手軽に、借りてゐたマッチをでも返すやうに、手近の呼鈴《ベル》を押した。
二人は、黙々として、暫らく相対してゐる裡に、以前の小間使が、扉《ドア》を静《しづか》に開けた。
「あのね。応接室の、確か炉棚《マンテルピース》の上の手文庫の中だつたと思ふのだがね。壊れた時計がある筈だから持つて来て下さいね。若し手文庫の中になかつたら、あの辺を探して御覧! 確かあの近所に放り散かして置いた筈だから。」
信一郎が、あれほどまでに、心を労してゐた時計を、夫人は壊れた玩具か何かのやうに、放りぱなしにしてゐたのだつた。青木淳が臨終にあれほどの恨《うらみ》を籠めた筈の時計は、夫人に依つて、意味のない一箇の壊れ時計として、炉棚《マンテルピース》の上に、信一郎から預かつた時以来忘れられてゐたのである。
夫人から、そんなにまで手軽く扱はれてゐる品物に就いて、返すとか返さないとか、躍起になつてゐることが、信一郎には一寸気恥しいことのやうに思はれた。
が、夫人のあゝした言葉や態度は、心にもない豪語であり、擬勢である、口先でこそあんなことを云ひながらも、彼女にも人間らしい心が、少しでも残つてゐる以上、心の中では可なり良心の苛責を受けてゐるのに違《ちがひ》ない。信一郎は、やつとさう思ひ返した。
小間使は、探すのに手間が取れたと見え、暫らくしてから帰つて来た。そのふつくらとした小さい手の裡には、信一郎には忘れられない時計が、薄気味のわるい光を放つてゐた。
夫人は小間使から、無造作にそれを受取ると、信一郎の卓の上に軽く置きながら、
「さあ! どうぞ。よく検《あら》ためてお受取り下さいませ! お預りしたときと、寸分違つてゐない筈ですから。」
夫人は、毒を喰《くら》はゞ皿までと云つたやうに、飽くまでも皮肉であり冷淡であつた。
八
信一郎は、差し出されたその時計を見たときに、その時計の胴にうすく残つてゐる血痕を見たときに、弄ばれて非業の死方をした青年に対する義憤の情が、旺然として胸に湧いた。それと同時に、青年を弄んで、間接に彼を殺しながら而も平然として彼の死を冷視してゐる――神聖な遺品《かたみ》の時計をさへ、蔑み切つてゐる夫人に対して、燃ゆるやうな憎しみを、感ぜずにはゐられなかつた。
信一郎は、かすかに顫へる手で、その時計を拾ひ上げながら、夫人の面《おもて》を真向から見詰めた。
「いや、確《たしか》にお受取りしました。お預けした品物に相違ありません。」
彼の言葉も、いつの間にか、敵意のある切口上に変つてゐた。
「ところが、奥さん!」信一郎は、満身の勇気を振ひながら云つた。
「一旦お返し下さつた此時計を――改めて、さうです、青木君の意志として――私は、改めて貴女に受取つていたゞきたいのです。」
さう云つて、信一郎は、夫人の顔をぢつと見た。どんなに厚顔な夫人でも、少しは狼狽するだらうと予期しながら。が、夫人の顔は、やゝ殺気を帯びてゐるものゝ、その整つた顔の筋肉一つさへ動かさなかつた。
「何だか手数のかゝるお話でございますのね。子供のお客様ごつこ[#「ごつこ」に傍点]ぢやありますまいし、お返ししたものを、また返していただくなんて、もう一度お預かりした丈で、懲々《こり/″\》[#ルビの「/″\」は底本では「こり/\」]いたしましたわ。」
夫人は噛んで捨てるやうに云つた。
信一郎は、夫人の白々しい態度に、心の底まで、憎みと憤怒とで、煮え立つてゐた。
「いや、此度はお預けするのではないのです。いや、最初から此の時計は貴女にお預けすべきでなくお返ししなければならぬ時計だつたのです。時計の元の持主として、貴女に
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