待ち下さいませ。屹度《きつと》、お化粧部屋の方にいらつしやるのですから。」
 さう云つて、少女は扉《ドア》を開けた。
 信一郎は、おそる/\その華麗な室内に足を踏み入れた。部屋の中には、夫人の繊細な洗煉された趣味が、隅から隅まで、行き渡つてゐた。敷詰めてある薄桃色の絨毯にも、水色の窓掩ひにも、ピアノの上に載せてある一輪挿の花瓶にも、桃花心木《マホガニイ》の小さい書架に、並べてある美しい装幀の仏蘭西《フランス》の小説にも、雪のやうに白い絹で張りつめられた壁にかゝつてゐるクールベエらしい風景画にも炉棚《マンテルピース》の上の少女の青銅像《ブロンズ》にも、夫人の高雅な趣味が光つてゐた。凡ての装飾が、金で光つてゐる丈ではなく、その洗煉された趣味で光つてゐるのだつた。
 信一郎は、部屋の装飾に、現はれてゐる夫人の教養と趣味とに、接すると、昂めよう/\としてゐる反感が、何時の間にか、その鋭さを減じて行くやうな危険を、感ぜずにはゐられなかつた。
 が、かうした美しい部屋も、彼女の毒の花園なのだ。彼女が、異性を惑はす魅力の一つなのだ。信一郎は、さう云ふ風に考へ直しながら、青色の羽蒲団の敷いてある籐椅子に、腰をおろしてゐた。窓からは、宏大な庭園が、七月の太陽に輝いてゐるのが見えた。
 夫人は、なか/\姿を見せなかつた。小間使が氷の入つた果実汁《シロップ》を持つて来た後も、なかなか姿を見せなかつた。
 彼は、所在なさに、室内の装飾をあれからこれへと、見直してゐた。その裡に、ふと三尺とは離れてゐない卓《デスク》の上に、眼が付いた。其処には、先刻信一郎が受け取つたのと同じ色のレタアペイパアと、金飾の華やかな婦人持の万年筆とが、置かれてゐた。先刻の手紙は、恐らくこの桃花心木《マホガニイ》の小さい卓で書いたのに違ひない。さう思つて見てゐる中に、ふと一枚のレタアペイパアに、英語か仏蘭西語かが書かれてゐるのに気が付いた。彼の好奇心は、動いた。彼は、少し上体を、その方に延ばしながら、それを読んだ。
  (Shinichiro)
 彼は、自分の名前が書かれてゐるのに驚いた。が、その次ぎの二字を見たときに、彼の駭きは十倍した。
  (Shinichiro, my love !)
『信一郎、|わが恋人《マイラヴ》よ!』
 而も、その同じ句がそのレタアペイパアの上に、鮮かな筆触で幾つも/\走り書きされてゐるのだつた。

        四

『信一郎、|わが恋人《マイラヴ》よ!』
 信一郎の頭は、この短い文句でスツカリ掻き擾《みだ》されてしまつた。彼は十七八の少年か何かのやうに、我にも非ず、頬が熱くほてるのを感じた。夫人に対して、張り詰めてゐた心持が、ともすれば揺ぎ始めようとする。
 彼は、心の中で幾度も叫んだ。夫人の技巧の一つだ。誘惑の技巧の一つだ。自分の眼に入るやうに、わざとこんな文句を、書き散して置いたのだ。見え透いた技巧なのだ! が、さう云ふ考への後から、又別な考へが浮んで来た。あの悧口な聡明な夫人が、こんな露骨な趣味の悪い技巧を弄する訳はない! やつぱり、夫人の本心から出た自然の書き散しに違ひない。信一郎の心の中の男性に共通な自惚《うぬぼれ》が、ムク/\と頭を擡げようとする。あの先刻受け取つた手紙も、かうして見ると、夫人の本心を語つてゐるのかも知れない。夫人を妖婦のやうに思ふのも、みんな自分の邪推かも知れない。彼女は、男性との恋愛ごつこ[#「ごつこ」に傍点]に飽き/\してゐるのだ。彼女の周囲に、蒐まる胡蝶のやうな戯恋者に、飽き/\してゐるのだ。本当に、心をも身をも捨てゝかゝる、真剣な異性の愛に飢ゑてゐるのかも知れない。世馴れた色男《ダンディ》風の男性に、慊《あき》たらない彼女は、自分のやうな初心《うぶ》な生真面目な男性を求めてゐたのかも知れない。
 夫人に対する信一郎の敵意がもう半《なかば》崩れかけてゐる時だつた。
「御免下さいまし。」
 銀鈴に触れるやうな爽かな声と共に、夫人は静かに扉《ドア》をあけて入つて来た。
 湯上りらしく、その顔は、白絹か何かのやうに艶々しく輝いてゐた。縮緬の桔梗の模様の浴衣が、そのスツキリとした身体の輪廓を、艶美に描き出してゐた。
 わづか四五尺の間隔で、ぢつとその美しい眸を投げられると、信一郎の心は、催眠術にでもかゝつたやうな、陶酔を感ずるのを、何《ど》うともすることが出来なかつた。
「まあ! 本当によくいらつしやいましたこと。妾《わたくし》、もうあれ切りかと思ひましたの。もう、あれ切り来て下さらないのかと思つてゐましたよ。」
 信一郎が、彼女の入つて来たのを見て、立ち上らうとするのを、制しながら、信一郎と向きあつて小さい卓を隔てながら、腰を下した。
 信一郎は、ともすれば後退《あとじさ》りしさうな自分の決心に、頻りに拍車を与へ
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