ながら、それでも最初の目的|通《どほり》、夫人と戦つて見ようと決心した。
「先刻《さつき》は大変失礼しましたこと。あの方達を帰してしまつた後で、ゆつくり貴君《あなた》とお話がしたかつたのよ。差し上げました御手紙御覧下すつて?」
「見ました。」
信一郎は、自分の決心を、動かすまいと、しつかりと云ひ放つた。
「何うお考へ遊ばして?」
夫人は、追窮するやうに、美しく笑ひながら訊いた。信一郎は、可なりハツキリした口調で云つた。
「貴女《あなた》の本当のお心持が、分らないものですから、何うお答へしてよいか当惑する丈《だけ》です。」
「あれでお分りにならないの。あれで、十分分つて下すつてもいゝと思ひますの。妾《わたくし》が、貴君のことを何う考へてゐますか。」
夫人の顔に可なり、真剣な色が動いた。信一郎も、ある丈の力を以て云つた。
「奥さん! 何うか記憶して置いて下さい! 僕には妻がありますから、家庭がありますから、貴女の危険なお戯れのお相手は出来ませんから。」
信一郎は、妻の静子の面影や、青木淳の死相を心の味方として、この強敵に向つてハツキリと断言した。
五
その刹那、夫人の顔が、遉《さすが》に鋭く緊張した。
「あら、貴君《あなた》までが、そんなことを考へていらつしやるの。妾《わたくし》が貴君の家庭を擾すやうな女だと思つていらつしやるの。貴君にも、やつぱり妾《わたくし》の真意が分つて下さらないのですわね。妾《わたくし》が、何を求めてゐるかが、やつぱり分つて下さらないのですわね。妾《わたくし》は、妾《わたくし》の周囲の戯恋者には飽き/\したと申してゐるではありませんか。妾《わたくし》は戯恋の相手ではなく、本当のお友達が欲しいのです。本当の男性らしい男性のお友達が欲しいのです。妾《わたくし》が、この方こそと思つてお選みした貴君からそんな誤解を受けるなんて、妾《わたくし》には忍びがたい恥辱ですわ。」
さう云つてゐる夫人の顔には、もうあの美しい微笑は浮んでゐなかつた。少しく、忿怒を帯びた顔は、振ひ付きたいやうな美しさで、輝いてゐた。
美しい夫人の顔に、忿怒の色が浮ぶのを見ると、信一郎は心の中で、可なりタヂ/\となつた。が、彼は自分のため、青木淳のため、また夫人その人のためにも、夫人の妖婦的な魂と、戦はねばならぬと決心した。彼は、夫人の美しい顔から、出来るだけ面《おもて》を背けながら云つた。
「いや! 貴女《あなた》のお心が、分らないのではありません。僕を、真のお友達として、多くの男性から選んで下さる。それは僕として、光栄です。が、奥さん! 僕は貴女から選まれると云ふことが可なり危険なことであるやうな気がするのです。僕は、安穏な家庭の幸福で、満足してゐる平凡な人間です。何うか僕を、このままに残して置いて下さい!」
信一郎の語気は、可なり強かつた。
「まあ! 何と云ふことを仰しやるのです。妾《わたくし》を、爆弾か何かのやうに、触ることさへ、お嫌ひだと云ふのですね。」
夫人は、半ば冗談のやうに、云はうとしたが、信一郎の心の中の敵意を、アリ/\と感じたと見え、先刻までの夫人とは、丸切《まるきり》違つたやうな鋭さが、その美しさの裏に、潜み初めてゐた。
「いや! 奥さん、こんなことを申し上げては、失礼かも知れませんが、僕は貴女に選まれて飛んだ目にあつたある男性のことを知つてゐるのです。その男も、真面目な初心《うぶ》な男でしたから、僕が貴女に選まれたのと、同じやうな意味で、貴女に選まれたのではないかと思ふのです。若《も》し、同じやうな意味で選まれたとすると、その男が飛んだ目に逢つたやうに、僕も何時かは、飛んだ目に逢ひさうです。はゝゝゝ。」
信一郎は、懸命な勇気を以て、云ひ終ると調子外れの笑ひ方をした。彼は烈しい興奮のために、妙に上ずツてしまつてゐたのである。
夫人の顔色が、一寸変つた。が、少しも取り擾す容子はなかつた。彼女は、信一郎の顔を、ぢつと見詰めて居たが、憫笑するやうな笑ひを、頬の辺《あたり》に浮べると、一寸腰を浮かして、傍の卓の上の呼鈴を押しながら云つた。
「貴君《あなた》と妾《わたくし》とは、やつぱり縁なき衆生だつたのですわね。やつぱりあれつ切りにして置けばよかつたのですわね。妾《わたくし》の思ひ違ひよ。貴君《あなた》を、スツカリ見損つてゐたのですわね。貴君《あなた》の躊躇や、臆病を、妾《わたくし》反対に解釈してゐたのですわ。妾《わたくし》男性の中で臆病な方が、一等嫌ひなのですわ。差し出された女の唇に、接吻を与へるほどの勇気さへないやうな男性が、一等嫌ひなのでございますよ。おほゝゝゝゝ。妾《わたくし》自身、御覧の通《とほり》のお転婆でございますから、やつぱり強い男性の方が、一等好きなのでございますよ。」
信
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