彼女を早くも嫌つて恐れて、逃れて来た自分にさへ、尚執念深く、その蜘蛛の糸を投げようとしてゐる。恐ろしい妖婦だ! 男性の血を吸ふ吸血鬼《ヴァンパイア》だ。さう思つて来ると、信一郎の心に、半面血に塗れながら、
『時計を返して呉れ。』
と絶叫した青年の面影が、又|歴々《あり/\》と浮かんで来た。さうだ! あの時計は、不得要領に捲上げらるべき性質の時計ではなかつたのだ! 青年の恨みを、十分に籠めて叩き返さなければならぬ時計だつたのだ! 殊に、青年の手記の中《うち》の彼女が、瑠璃子夫人であることが、ハツキリと分つてしまつた以上、自分にその責任が、儼として存在してゐるのだ。恐ろしいものだからと云つて、面《おもて》を背けて逃げてはならないのだ! 青年に代つて、彼が綿々の恨みを、代言してやる必要があるのだ! 青年に代つて、彼女の僅かしか残つてゐぬかも知れぬ良心を恥かしめてやる必要があるのだ! さうだ! 一身の安全ばかりを計つて逃げてばかりゐる時ではないのだ! さうだ! 彼女がもう一度の面会を望むのこそ、勿怪《もつけ》の幸である。その機会を利用して、青年の魂を慰めるために、青年の弟を、彼女の危険から救ふために、否凡ての男性を彼女の危険から救ふために、彼女の高慢な心を、取りひしいでやる必要があるのだ。
信一郎の心が、かうした義憤的な興奮で、充された時だつた。妻の静子は、――神の如く何事をも疑はない静子は、信一郎を促すやうに云つた。
「急な御用でしたら、直ぐいらしつては、如何でございます。」
妻のさうした純な、少しの疑惑をも、挟《さしはさ》まない言葉に、接するに付けても、信一郎は夫人に叩き返したいものが、もう一つ殖えたことに気が付いた。それは、夫人から受けた此の誘惑の手紙である。妻に対する自分の愛を、陰ながら、妻に誓ふため、夫人の面《おもて》に、この誘惑の手紙を、投げ返してやらねばならない。
信一郎の心は、今最後の決心に到達した。彼は、その白い面《おもて》を、薄赤く興奮させながら、妻に云ふともなく、運転手に命ずるともなく叫んだ。
「ぢや直ぐ引返すことにせう。早くやつてお呉れ!」
彼は、自分自身興奮のために、身体が軽く顫へるのを感じた。
「畏まりました、七分もかゝりません。」
さう云ひながら、運転手と助手とは、軽快に飛び乗つた。
「ぢや、静子、行つて来るからね。ホンの一寸だ! 直ぐ帰つて来るからね。」
信一郎は、小声で云ひ訳のやうに云ひながら、妻の顔を、なるべく見ないやうに、車中の人となつた。
が、ガソリンが爆発を始めて、将に動き出さうとする時だつた。信一郎は、周章《あわて》て窓から、首を出した。
「おい! 静子! おれの本箱の下の引き出しの、確か右だつたと思ふが、ノートが入つてる。それを持つて来ておくれ!」
「はい。」と云つて気軽に、立ち上つた妻は、二階から大急ぎで、そのノートを持つて降りて来た。
『これが、武器だ!』信一郎は、妻の手からそれを受けとりながら、心の中でさう叫んだ。
爪黒《つまぐろ》の鹿の血と、疑着の相ある女の生血とを塗つた横笛が、入鹿《いるか》を亡ぼす手段の一つであるやうに、瑠璃子夫人の急所を突くものは、青木淳の残した此のノートの外にはないと、信一郎は思つた。
三
五番町までは、一瞬の間だつた。
かうした行動に出たことが、いゝか悪いか迷ふ暇さへなかつた。信一郎の頭の中には、瑠璃子夫人の顔や、妻の静子の顔や、非業に死んだその男の顔や、今日|客間《サロン》で見たいろ/\な人々の顔が、嵐のやうに渦巻いてゐる丈だつた。が、その渦巻の中で彼は自ら強く決心した。『彼女の誘惑を粉砕せよ!』と。
もう再びは潜るまいと決心した花崗岩の石門に、自動車は速力を僅に緩めながら進み入つた。もう再びは、足を踏むまいと思つた車寄せの石段を、彼は再び昇つた。が、先刻は夫人に対する讃美と憧れの心で、胸を躍らしながら、が、今は夫人に対する反感と憤怒とで、心を狂はせながら。
取次ぎに出たものは、あの可愛い少年の代りに、十七ばかりの少女だつた。
「奥様がお待ちかねでございます。さあ、どうかお上り下さいませ。」
信一郎は、それに会釈する丈《だけ》の心の余裕もなかつた。彼は黙々として、少女の後に従つた。
少女は先刻の客間《サロン》の方へ導かないで、玄関の広間《ホール》から、直ぐ二階へ導く階段を上つて行つた。
「あの、お部屋の方にお通し申すやうに仰しやつてゐましたから。」
信一郎が一寸躊躇するのを見ると、少女は振り返つてさう言つた。
階段を昇り切つた取つ付きの部屋が、夫人の居間だつた。少女は軽く叩《ノック》したが、内から応ずる気勢《けはひ》がしなかつた。
「あら! いらつしやらないのかしら。それではどうか、お入りになつて、お
前へ
次へ
全157ページ中103ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング