夫の帰りを知つた妻が、急いで玄関へ出て来た。彼女は、夫の顔を見ると、ニコニコと嬉しさうに笑ひながら、
「お手紙なら、此方《こちら》にお預りしてありますのよ。」と、云ひながら、薄桃色の瀟洒な封筒の手紙を差し出した。暢達な女文字が、半ば血迷つてゐる信一郎の眼にも美しく映つた。


 面罵

        一

 妻から、荘田夫人の手紙を差し出されて見ると、信一郎は激しい羞恥と当惑とのために、顔がほてるやうに熱くなつた。平素は、何の隔てもない妻の顔が、眩しいもののやうに、真面《まとも》から見ることが出来なかつた。
 が、静子の顔は、平素《いつも》と寸分違はぬやうに穏かだつた。春のやうに穏かだつた。夫の不信を咎めてゐるやうな顔色は、少しも浮んでゐなかつた。見知らぬ女性から、夫へ突然舞ひ込んで来た手紙を、疑つてゐるやうな容子は、少しも見えなかつた。夫の帰宅を、いそ/\と出迎へてゐる平素の優しい静子だつた。
 信一郎は、妻の神々しい迄に、慎しやかな容子を見ると、却つて心が咎められた。これほどまでに自分を信じ切つてゐる妻を欺いて、他の女性に、好奇心を、懐いたことを、後悔し心の中で懺悔した。
 妻が差出した夫人の手紙が、悪魔からの呪符か何かのやうに、厭はしく感ぜられた。もし、人が見てゐなかつたら、それを、封も切らないで、寸断することも出来た。が、妻が見て居る以上、さうすることは却つて彼女に疑惑を起させる所以《ゆゑん》だつた。信一郎は、おづ/\と封を開いた。
 手紙と共に封じ込められたらしい、高貴な香水の匂が、信一郎の鼻を魅するやうに襲つた。が、もうそんなことに依つて、魅惑せらるゝ信一郎ではなかつた。
 彼は敵からの手紙を見るやうに警戒と憎悪とで、あわたゞしく貪るやうに読んだ。
 
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『先刻《さつき》は貴君《あなた》を試したのよ。妾《わたくし》の客間へ、妾《わたくし》と戯恋《フラート》しに来る多くの男性と貴君が、違つてゐるか何《ど》うかを試したのですわ。妾《わたくし》は戯恋《フラート》することには倦き/\しましたのよ。本当の情熱がなしに、恋をしてゐるやうな真似をする。擬似恋愛《フラーテイション》! 妾《わたくし》は、それに倦き/\しましたのよ。身体や心は、少しも動かさないで、手先|丈《だけ》で、恋をしてゐるやうな真似をする。恋をしてゐるやうな所作|丈《だけ》をする。恋をしてゐるやうな姿勢|丈《だけ》を取る。妾《わたくし》は、妾《わたくし》の周囲に蒐まつてゐる、さうした戯恋者のお相手をすることには、本当に倦き/\しましたのよ。妾《わたくし》は真剣な方が、欲しいのよ。男らしく真剣に振舞ふ方が欲しいのよ。凡ての動作を手先丈でなく心の底から、行ふ方《かた》が欲しいのよ。
貴君《あなた》が忿然として座を立たれたとき、妾《わたくし》が止めるのも、肯かず、憤然として、お帰り遊ばす後姿《うしろすがた》を見たとき、この方《かた》こそ、何事をも真剣になさる方《かた》だと思ひましたの! 何事をなさるにも手先や口先でなく、心をも身をも、打ち込む方だと思ひましたの。妾《わたくし》が長い間、探《たづ》ねあぐんでゐた本当の男性だと思ひましたの。
信一郎様!
貴方《あなた》は妾《わたくし》の試《テスト》に、立派に及第遊ばしたのよ。
今度は、妾《わたくし》が試される番ですわ、妾《わたくし》は進んで貴方《あなた》に試されたいと思ひますの。妾《わたくし》が、貴方《あなた》のために、どんなことをしたか、どんなことをするか、それをお試しになるために、直ぐ此の自動車でいらしつて下さい!
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]瑠璃子』

 手紙の文句を読んでゐる中《うち》に、瑠璃子夫人の怪《あや》しきまでに、美しい記憶が、殺されそこなつた蛇か何かのやうに、また信一郎の頭の中に、ムク/\と動いて来た。
 夫人の手紙を、読んで見ると、夫人の心持が、満更虚偽ばかりでもないやうに、思はれた。あの美しい夫人は、彼女を囲む阿諛や追従や甘言や、戯恋に倦き/\してゐるのかも知れない。実際彼女は純真な男性を、心から求めてゐるかも知れない。さう思つてゐると、夫人の真紅の唇や、白き透き通るやうな頬が、信一郎の眼前に髣髴した。
 が、次ぎの瞬間には青木淳の紫色の死顔や、今|先刻《さつき》見たばかりの、青木淳の弟の姿などが、アリアリと浮んで来た。

        二

 手紙を読んだ刹那の陶酔から、醒めるに従つて、夫人に対する憤《いきどほ》ろしい心持が、また信一郎の心に甦つて来た。かうした、人の心に喰ひ込んで行くやうな誘惑で、青木淳を深淵へ誘つたのだ。否青木淳ばかりではない、青木淳の弟も、あの海軍大尉も、否彼女の周囲に蒐まる凡ての男性を、人生の真面目な行路から踏み外させてゐるのだ。
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