の軍服に気が付いたとき、信一郎の頭に、電光のやうに閃いたものは、村上海軍大尉といふ名前であつた。青年が、遺して行つた手記の中に出て来る村上海軍大尉と云ふ名前だつた。
青木淳が、烈しい忿恨を以て、ノートに書き付けた文句が、信一郎の心に、アリ/\と甦つて来た。
[#ここから1字下げ]
『昨日自分は、村上海軍大尉と共に、彼女の家の庭園で、彼女の帰宅するのを待つてゐた。その時に、自分はふと、大尉がその軍服の腕を捲り上げて、腕時計を出して見てゐるのに気が付いた。よく見ると、その時計は、自分の時計に酷似してゐるのである。自分はそれとなく、一見を願つた。自分が、その時計を、大尉の頑丈な手首から、取り外したときの駭きは、何《ど》んなであつたらう。若《も》し、大尉が其処に居合せなかつたら、自分は思はず叫声を挙げたに違《ちがひ》ない。』
[#ここで字下げ終わり]
信一郎は、青木淳の弟と語つてゐる軍服姿の男を見たときに、それが手記の中の村上大尉であることに、もう何の疑《うたがひ》もなかつた。もし、それが、村上海軍大尉であるとしたならば、青木淳と大尉との双方に、同じ白金《プラチナ》の時計を与へて、『これは、妾《わたくし》の貴君《あなた》に対する愛の印として、貴君に差し上げますのよ。本当は、かけ替のない秘蔵の品物ですけれど。』と、云ひながら二人を翻弄し去つた女性が、果して何人《なんぴと》であるかが、信一郎にはもうハツキリと分つてしまつた。
『汝妖婦よ!』
彼は心の中《うち》で再びさう声高く、叫ばずにはゐられなかつた。
が、信一郎の心を、もつと痛めたことは、兄が恐ろしく美しい蜘蛛の糸に操られて、悲惨な横死を――形は奇禍であるが、心は自殺を――遂げたと云ふことを夢にも知らないで、その肉親の弟が、又同じ蜘蛛の網に、ウカ/\とかゝりさうになつてゐることだつた。いや恐らくかゝつてゐるのかも知れない。いや、兄と同じやうに、もう白金《プラチナ》の時計を貰つてゐるのかも知れない。あゝして、話してゐる中《うち》に、相手の海軍大尉の腕時計に、気が付くのかも知れない。兄の血と同じ血を持つてゐる筈の弟は、それを見て兄と同じやうに激昂する。兄と同じやうに自殺を決心する。
さう考へて来ると、信一郎は、烈々と輝いてゐる七月の太陽の下に、尚|周囲《あたり》が暗くなるやうに思つた。兄が陥つた深淵へ又、弟が陥ちかかつてゐる。それほど、悲惨なことはない。さう思ふと、信一郎は、
『おい! 君!』と、高声に注意してやりたい希望に動かされた。が、それと同時に、血を分けた[#「血を分けた」は底本では「血を分けて」]兄弟を、兄に悲惨な死を遂げしめた上に、更に弟をも近づけて、翻弄しようとする毒婦を憎まずにはゐられなかつた。
『汝妖婦よ!』彼は、心の中《うち》でもう一度さう叫んだ。が、信一郎が、これほど心を痛めてゐるにも拘らず、当の青年は、何が可笑《をか》しいのか、軽く上品に笑つてゐるのが、手に取るやうに聞えて来た。
信一郎は、見るべからざるものを見たやうに、面《おもて》を背けて足早に門を駈け出《い》でたのである。
五
新宿行の電車に乗つてからも、信一郎の心は憤怒や憎悪の烈しい渦巻で一杯だつた。
瑠璃子夫人こそ、白金《プラチナ》の時計を返すべき当の本人であることが解ると、夫人の美しさや気高さに対する讃嘆の心は、影もなくなつて、憎悪と軽い恐怖とが、信一郎の心に湧いた。
青木淳の死の原因が、直接ではなくても、間接な原因が、自分であることを知りながら、嫣然として時計を受け取つた夫人の態度が、空恐しいやうに思ひ返された。『妾《わたくし》が預つて本当の持主に返して上げます。』と、事もなげに云ひ放つた夫人の美しい面影が、空恐ろしいやうに想ひ返された。
[#ここから1字下げ]
『が、彼女と面と向つて、不信を詰責しようとしたとき、自分は却つて、彼女から忍びがたい恥かしめを受けた。自分は小児の如く、翻弄され、奴隷の如く卑しめられた。而も美しい彼女の前に出ると、唖のやうにたわいもなく、黙り込む自分だつた。自分は憤《いきどほり》と恨《うらみ》との為にわな/\顫へながら而も指一本彼女に触れることが出来なかつた。自分は力と勇気とが、欲しかつた。彼女の華奢な心臓を、一思ひに突き刺し得る丈《だけ》の力と勇気とを。……彼女を心から憎みながら、しかも片時も忘れることが出来ない。彼女が彼女のサロンで多くの異性に取囲まれながら、あの悩ましき媚態を惜しげもなく、示してゐるかと思ふと、自分の心は、夜の如く暗くなつてしまふ。自分が彼女を忘れるためには、彼女の存在を無くするか、自分の存在を無くするか二つに一つだと思ふ。……さうだ、一層《いつそ》死んでやらうかしら。純真な男性の感情を弄ぶことが、どんなに危険
前へ
次へ
全157ページ中99ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング