であるかを、彼女に思ひ知らせてやるために。さうだ、自分の真実の血で、彼女の偽《いつはり》の贈物を、真赤に染めてやるのだ。そして、彼女の僅に残つてゐる良心を、恥《はづか》しめてやるのだ。』
[#ここで字下げ終わり]
青木淳の遺して逝つた手記の言葉が、太陽の光に晒されたやうに、何の疑点もなくハツキリと解つて来た。彼女が、瑠璃子夫人であることに、もう何の疑ひもなかつた。純真な青年の感情を弄んで彼を死に導いた彼女が、瑠璃子夫人であることに、もう何の疑ひもなかつた。
『汝妖婦よ!』
信一郎は、十分な確信を以て、心の中でさう叫んだ。青年は、彼女に対して、綿々の恨《うらみ》を呑んで死んだのである。白金《プラチナ》の時計を『返して呉れ。』と云ふことは、『叩き返して呉れ。』と云ふことだつたのだ。彼女の僅に残つてゐる良心を恥かしめてやるために、叩き返して呉れと云ふことだつた。
さうだ! それを信一郎は、瑠璃子夫人のために、不得要領に捲き上げられてしまつたのである。
『取り返せ。もう一度取り返せ! 取り返してから、叩き返してやれ!』
信一郎の心に、さう叫ぶ声が起つた。『それで彼女の僅に残つてゐる良心を恥かしめてやれ。お前は死者の神聖な遺託に背いてはならない。これから取つて返して、お前の義務を尽さねばならない。あれほど青年の恨《うらみ》の籠つた時計を、不得要領に、返すなどと云ふことがあるものか。もう一度やり直せ。そしてお前の当然な義務を尽せ。』
信一郎の心の中の或る者が、さう叫び続けた。が、心の中《うち》の他の者は、かう呟いた。
『危きに近寄るな。お前は、あの美しい夫人と太刀打が出来ると思ふのか。お前は、今の今迄危く夫人に翻弄されかけてゐたではないか。夫人の張る網から、やつと逃れ得たばかりではないか。お前が血相を変へて駈付けても、また夫人の美しい魅力のために、手もなく丸められてしまふのだ。』
かうした硬軟二様の心持の争ひの裡に、信一郎は何時の間にか、自分の家近く帰つてゐた。停留場からは、一町とはなかつた。
電車通を、右に折れたとき、半町ばかり彼方の自分の家の前あたりに、一台の自動車が、止つてゐるのに気が付いた。
六
信一郎の興奮してゐた眸には、最初その自動車が、漠然と映つてゐる丈《だけ》だつた。それよりも、彼は自分の家が、近づくに従つて、『社の連中と多摩川へ行く。』などと云ふ口実で、家を飛び出しながら、二時間も経たない裡に、早くも帰つて行くことが、心配になり出した。また早く、帰宅したことに就いて、妻を納得させる丈《だけ》の、口実を考へ出すことが、可なり心苦しかつた。彼は、電車の中でも、何処か外で、ゆつくり時間を潰して、夕方になつてから、帰らうかとさへ思つた。が、彼の本当の心持は、一刻も早く家に帰りたかつた。妻の静子の優しい温順な面影に、一刻も早く接したかつた。危険な冒険を経た者が、平和な休息を、只管《ひたすら》欲するやうに、他人との軋轢や争ひに胸を傷つけられ、瑠璃子夫人に対する幻滅で心を痛めた信一郎は、家庭の持つてゐる平和や、妻の持つてゐる温味の裡に、一刻も早く、浴したかつたのである。縦令《たとひ》、もう一度妻を欺く口実を考へても、一刻も早く家に帰りたかつたのである。
が、彼が一歩々々、家に近づくに従つて、自分の家の前に停つてゐる自動車が、気になり出した。勿論、此の近所に自動車が、停つてゐることは、珍らしいことではなかつた。彼の家から、つい五六軒向うに、ある実業家の愛妾が、住つてゐるために、三日にあげず、自動車がその家の前に、永く長く停まつてゐた。今日の自動車も、やつぱり何時もの自動車ではないかと、信一郎は最初思つてゐた。が、近づくに従つて、何時もとは、可なり停車の位置が違つてゐるのに気が付いた。何うしても、彼の家を訪ねて来た訪客が、乗り捨てたものとしか見えなかつた。
が、段々家に近づくに従つて、恐ろしい事実が、漸く分つて来た。何だか見たことのある車台だと云ふ気がしたのも、無理ではなかつた。それは、紛れもなくあの青色大型の、伊太利《イタリー》製の自動車だつた。信一郎も一度乗つたことのある、あの自動車だつた。さうだ、此の前の日曜の夜に、荘田夫人と同乗した自動車に、寸分も違つてゐなかつた。
夫人が、訪ねて来たのだ! さう思つたときに、信一郎の心は、激しく打ち叩かれた。当惑と、ある恐怖とが、胸一杯に充ち満ちた。
出先で、妖怪に逢ひ這々《はふ/\》の体で自分の家に逃げ帰ると、その恐ろしい魔物が、先廻りして、自分の家に這入り込んでゐる。昔の怪譚にでもありさうな、絶望的な出来事が、信一郎の心を、底から覆してしまつた。瑠璃子夫人の美しい脅威に戦いて、家庭の平和の裡に隠れようとすると、相手は、先廻りして、その家庭の平和を
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