人の蜜のやうな言葉に乗ぜられて、散々な目にあつたではないか。再びお前は、夫人から何を求めようとしてゐるのだ。お前が夫人の言葉を信ずれば、信ずるほど、夫人のお前に与ふるものは、幻滅と侮辱との外には、何もないのだ。男性の威厳を思へ! 今日夫人から受けた幻滅と侮辱とは、まだ夫人に対するお前の幻覚を破るのに足りなかつたのか。男性の威厳を思へ! 夫人の言葉をスツパリと突き放してしまへ! 信一郎の心の奥に、弱いながら、さう叫ぶ声があつた。
信一郎は、心の中に夫人の美しさに、抵抗し得る丈《だけ》の勇気を、やつと蒐めながら云つた。
「でも、奥さん! 私、このまゝお暇いたした方がいゝやうに思ふのです。あゝした立派な方が蒐まつてゐる客間には、私のやうな者は全く無用です。どうも、大変お邪魔しました。」
信一郎は、可なりキツパリと断りながら、急いで踵《くびす》を返さうとした。
「まあ! 貴君《あなた》、何をそんなにお怒り遊ばしたの、何か妾《わたくし》が貴君《あなた》のお気に触るやうなことをいたしましたの。折角いらして下すつて、直ぐお帰りになるなんて、余《あんま》りぢやありませんか。客間に蒐まつていらつしやる方なんて、妾《わたくし》仕方なくお相手いたしてをりますのよ。妾《わたくし》が、妾《わたくし》の方から求めてお友達になりたいと思つたのは、本当は貴君《あなた》お一人なのですよ。」
信一郎は、さう云ひながら、何事もないやうに、笑つてゐる夫人の美しさに、ある凄味をさへ感じた。夫人の口吻《くちぶり》から察すれば、夫人は周囲に集まつてゐる男性を、蠅同様に思つてゐるのかも知れない。もし、さうだとすると、信一郎なども、新来の初心な蠅として、たゞ一寸した珍しさに引き止められてゐるのかも知れない。さうした上部《うはべ》丈《だ》けの甘言に乗つて、ウカ/\と夫人の掌上などに、止まつてゐる中には、あの象牙骨の華奢な扇子か何かで、ピシヤリと一打《ひとうち》にされるのが、当然の帰結であるかも知れないと信一郎は思つた。
「でも、今日は帰らせていたゞきたいと思ひます。又改めて伺ひたいと思ひますから。」
信一郎は、可なり強くなつて、キツパリと云つた。
夫人も、遉《さすが》にそれ以上は、勧めなかつた。
「あらさう。何うしてもお帰りになるのぢや仕方がありませんわ。やつぱり、妾《わたくし》の心持が、貴方《あなた》にはよく分らないのですね。ぢや、左様なら。」
夫人は、淡々として、さう云ひ切ると、グルリと身体を廻らして、客間の方へ歩き出した。
夫人から引き止められてゐる内は、それを振切つて行く勇気があつた。が、かうあつさり[#「あつさり」に傍点]と軽く突き放されると、信一郎は何だか、拍子抜けがして淋しかつた。
夫人と別れてしまふことに依つて、異常な絢爛な人生の悦楽を、味ふ機会が、永久に失はれてしまふやうにも思はれた。自分の人生に、明けかゝつた冒険《ロマンス》の曙が、またそのまゝ夜の方へ、逆戻りしたやうにも思はれた。
が、危険な華やかな毒草の美しさよりも、慎しい、しをらしい花の美しさが、今彼の心の裡によみがへつた。
淋しいしかし安心な、暗いしかし質素な心持で、彼は大理石の丸柱の立つた車寄を静《しづか》に下つた。もう此の家を二度と訪ふことはあるまい。あの美しい夫人の面影に、再び咫尺《しせき》することもあるまい。彼がそんなことを考へながら、トボ/\と門の方へ歩みかけた時だつた。彼はふと、門への道に添ふ植込みの間から、左に透けて見える庭園に、語り合つてゐる二人の男性を見たのである。彼は、その人影を見たときに、ゾツとして其処に立ち止まらずにはゐられなかつた。
四
信一郎が、駭いて立ち竦んだのも、無理ではなかつた。玄関から門への道に添ふ植込の間から、透けて見える、キチンと整つた庭園の丁度真中に、庭石に腰かけながら、語り合つてゐる二人の男を見たのである。
二人の男を見たことに、不思議はなかつた。が、その二人の男が、両方とも、彼の心に恐ろしい激動を与へた。
彼の方へ面を向けて、腰を下してゐる学生姿の男を見た時に、彼は思はず『アツ!』と、声を立てようとした。品のよい鼻、白皙の面《おもて》、それは自分の介抱を受けながら、横死した青木淳と瓜二つの顔だつた。それが、白昼の、かほど、けざやかな太陽の下の遭遇でなかつたならば、彼はそれを不慮の死を遂げた青年の亡霊と思ひ過つたかも知れなかつた。
が、彼の理性が働いた。彼は一時は、駭いたものの直ぐその青年が、いつかの葬場で見たことのある青木淳の弟であることに、気が付いた。
然し、彼が最初の駭きから、やつと恢復した時、今度は第二の駭きが彼を待つてゐた。青年と相対して語つてゐる男は、紛れもなく海軍士官の軍服を着けてゐる。海軍士官
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