僕は明治時代第一の文豪として一葉を推しますね。」
 秋山氏は、如何にも芸術家らしい冷静と力とを以て、昂然とさう云ひ放つた。
 信一郎は、もう先刻からぢり/\と湧いて来る不愉快さのために、一刻もぢつとしてはゐられないやうな心持だつた。凡てが不愉快だつた。凡てが、癪に触つた。樫の棒をでも持つて、一座の人間を片ツ端から、殴り付けてやりたいやうにいら/\してゐた。
 さうした信一郎の心持を、知つてか知らずにか、夫人は何気ないやうに微笑しながら、
「渥美さん! しつかり遊ばしませ。大変お旗色が悪いやうでございますね。」

        二

 信一郎が、フラ/\と立ち上るのを見ると、皆は彼が大に論じ始めるのかと思つてゐた。が、今彼の心には、樋口一葉も尾崎紅葉もなかつた。たゞ、瑠璃子夫人に対する――夫人の移り易きこと浮草の如き不信に対する憎みと、恨みとで胸の中が燃え狂つてゐたのだつた。
 彼は一刻も早く此席を脱したかつた。彼は其処に蒐まつてゐる男性に対しても、激しい憎悪と反感とを感ぜずにはゐられなかつた。
「奥さん! 僕は失礼します。僕は。」
 彼は、感情の激しい渦巻のために、何と挨拶してよいのか分らなかつた。
 彼は、吃りながら、さう云つてしまふと、泳ぐやうな手付で、並んだ椅子の間を分けながら扉《ドア》の方へ急いだ。
 遉《さすが》に一座の者は固唾を飲んだ。今まで瑠璃子夫人を挟《さしは》さんで、鞘当的な論戦の花が咲いたことは幾度となくあつたが、そんな時に、形もなく打ち負された方でも、こんなにまで取り擾したものは一人もなかつた。
 真蒼な顔をして、憤然として、立ち出でて行く信一郎を、皆は呆気に取られて見送つた。
 信一郎は、もう美しい瑠璃子夫人にも何の未練もなかつた。後に残した華やかな客間を、心の中で唾棄した。夫人の艶美な微笑も蜜のやうな言葉も、今は空の空なることを知つた。否、空の空なるか、ではなくして、その中に恐ろしい毒を持つてゐることを知つた。それは、目的のための毒ではなくして、毒のための毒であることを知つた。彼女は、目的があつて、男性を翻弄してゐるのではなく、たゞ翻弄することの面白さに、翻弄してゐることを知つた。自分の男性に対する魅力を、楽しむために、無用に男性を魅してゐることを知つた。丁度、激しい毒薬の所有者が、その毒の効果を自慢して妄《みだり》に人を毒殺するやうに。
『汝妖婦よ!』
 信一郎は、心の中で、さう叫び続けた。彼は、客間から玄関までの十間に近い廊下を、電光の如くに歩んだ。
 周章《あわ》てゝ見送らうとする玄関番の少年にも、彼は一瞥をも与へなかつた。
 彼は突き破るやうな勢ひで、玄関の扉に手をかけた。
 が、その刹那であつた。
 信一郎の興奮した耳に、冷水を注ぐやうに、
「渥美さん! 渥美さん! 一寸お待ち下さい。」と、云ふ夫人の美しい言葉が聞えて来た。信一郎はそれを船人の命を奪ふ妖魚《サイレン》の声として、そのまゝ聞き流して、戸外へ飛び出さうと思つた。が、彼のさうした決心にも拘はらず、彼の右の手は、しびれたやうに、扉《ドア》の把手《ハンドル》にかゝつたまゝ動かなかつた。
「何うなすつたのです。本当にびつくりいたしましたわ。何をそんなにお腹立ち遊ばしたの。」夫人は小走りに信一郎に近づきながら、可愛い小さい息をはずませながら云つた。
 心配さうに見張つた黒い美しい眸、象牙彫のやうに気高い鼻、端正な唇、皎い艶やかな頬、かうした神々しい※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《らふ》たけた夫人の顔を見てゐると、彼女に嘘、偽りが、夢にもあらうとは思はれなかつた。彼女の微笑や言葉の中に、微塵賤しい虚偽が、潜んでゐようとは思はれなかつた。
「何《ど》うして、そんなに早くお帰り遊ばすの。妾《わたくし》、皆さんがお帰りになつた後で、貴君と丈《だけ》で、ゆつくりお話してゐたかつたの。秋山さんと云ふ方は、本当にあまんじやく[#「あまんじやく」に傍点]よ。反対のために反対していらつしやるのですもの。それをまた、みんなが迎合するのだから、厭になつてしまひますわね。客間《サロン》にいらつしやるのがお厭なら、図書室《ライブラリー》の方へ、御案内いたしますわ。あなたのお好きな『紅葉全集』でも、お読みになつて、待つていらつしやいませ。妾《わたくし》、もう三十分もすれば、何とか口実を見付けて、皆さんに帰つていたゞきますわ。ほんの少しの間、待つてゐて下さらない?」

        三

『ほんの少し待つてゐて下さらない?』と、云ふ夫人の言葉を聴くと、『汝妖婦よ!』と、心の中で叫んでゐた信一郎の決心も、またグラ/\と揺がうとした。
 が、彼は揺がうとする自分の心を、辛うじて、最後の所で、グツと引き止めることが出来た。お前はもう既に、夫
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