ないと、此処の客間《サロン》も淋しくていけない。」
三宅は、後輩が先輩に迎合するやうな、口の利き方をした。
「さあ! 秋山さん! 此方《こつち》へお掛けなさいませ。本当によい所へ入《い》らしつたわ。今貴君に断定を下していたゞきたい問題が、起つてゐますのよ。」
さう云ひながら、今度は夫人自ら、空いた椅子を、自分の傍へ、置き換へた。
「さあ! お掛けなさいませ! 貴君の御意見が、伺ひたいのよ。ねえ! 三宅さん!」
信一郎に、説き圧《お》されてゐた三宅は、援兵を得たやうに、勇み立つた。
「さあ、是非秋山さんの御意見を伺ひたいものです。ねえ! 秋山さん、今明治時代の第一の小説家は、誰かと云ふ問題が、起つてゐるのですがね、貴君《あなた》のお考へは、何うでせう。かう云ふ問題は、専門家でなければ駄目ですからね。」
三宅は、最後の言葉を、信一郎に当てこするやうに云つた。瑠璃子夫人までが、その最後の言葉を説明するやうに信一郎に云つた。
「此の方、秋山正雄さん、御存じ! あの赤門派の新進作家の。」
秋山正雄、さう云はれて見れば、最初見覚えがあると思つたのは、間違つてゐなかつたのだ。信一郎が一高の一年に入つた時、その頃三年であつた秋山氏は文科の秀才として、何時も校友会雑誌に、詩や評論を書いてゐた。それが、大学を出ると、見る間に、メキ/\と売り出して、今では新進作家の第一人者として文壇を圧倒するやうな盛名を馳せてゐる。その上、教養の広く多方面な点では若い小説家としては珍らしいと云はれてゐる人だつた。
信一郎は、自分が有頂天になつて、喋べつた文学論が、かうした人に依つて、批判される結果になつたかと思ふと、可なりイヤな羞しい気がした。有頂天になつてゐた彼の心持は忽ち奈落の底へまで、引きずり落された。場合に依つては、此の教養の深い文学者――しかも先輩に当つてゐる――と、文学論を戦はせなければならぬかと思ふと、彼は思はず冷汗が背中に湧いて来るのを感じた。
信一郎の心が、不快な動揺に悩まされてゐるのを外《よそ》に、秋山氏は、今火を点《つ》けた金口の煙草を燻《くゆ》らしながら、落着いた調子で云つた。
「それは、大問題ですな。僕の意見を述べる前に、兎に角皆様の御意見を承はらうぢやありませんか。」
さう云ひながら、秋山氏は額に掩ひかかる長髪を、二三度続けざまに後へ掻き上げた。
七
「大分いろ/\な御意見が出たのですがね。茲《ここ》にいらつしやる渥美君、確かさう仰《おつ》しやいましたね。」三宅は、一寸信一郎の方を振り顧つた。「大変紅葉をお説きになるのです。紅葉を措いて明治時代の文豪は、外にないだらうと、かう仰しやるのです。文章|丈《だけ》を取つても、鼈甲《べつかふ》牡丹のやうな絢爛さがあるとか何とか仰《おつ》しやるのです。」
三宅が、秋山氏に信一郎の持説を伝へてゐる語調の中には、『此の素人が』と云つた語気が、ありありと動いてゐた。秋山氏は、いかにも小説家らしく澄んだ眼で、信一郎の方をジロリと一瞥したが、吸ひさしの金口の火を、鉄の灰皿で、擦り消しながら、「鼈甲牡丹の絢爛さ! なるほど、うまい形容だな。だが、擬《まがひ》の鼈甲牡丹なら三四十銭で、其処らの小間物屋に売つてゐさうですね。」
瑠璃子夫人を初め、一座の人々が、秋山氏の皮肉を、どつと笑つた。
「紅葉山人の絢爛さも、きイちやん、みイちやん的読者を欣ばせる擬《まがひ》の鼈甲牡丹ぢやありませんかね。一寸見《ちよつとみ》は、光沢《つや》があつても、触つて見ると、牛の骨か何かだと云ふことが、直ぐ分りさうな。」
秋山氏が、文壇での論戦などでも、自分自身の溢れるやうな才気に乗じて、常に相手を馬鹿にしたやうな、おひやらかしてしまふやうな態度に出ることは、信一郎も予々《かね/″\》知つてゐた。それが、妙な羽目から、自分一人に向けられてゐるのだと思ふと、信一郎は不愉快とも憤怒とも付かぬ気持で、胸が一杯だつた。が、かうした文学者を相手に、議論を戦はす勇気も自信もなかつた。相手の辛辣な皮肉を黙々として、聴いてゐる外はなかつた。たゞ、文壇の花形ともある秋山氏が、自分などの素人を捕へて、真向から皮肉を浴びせてゐるのが、可なり大人気ないやうにも思はれて、それが恨めしくも、憤ろしくもあつた。
「第一『金色夜叉』なんか、今読んで見ると全然通俗小説ですね。」
秋山氏は、一刀の下に、何かを両断するやうに云つた。
瑠璃子夫人は、『おや。』と云つたやうな軽い叫びを挙げながら云つた。
「三宅さんも、先刻《さつき》そんなことを云つたのよ。あ、分つた! 三宅さんのは秋山さんの受売だつたのね。」
三宅は、赤面したやうに、頭を掻いた。一座は、信一郎を除いて、皆ドツと笑つた。
秋山氏は、皮肉な微笑を浮べながら、
「いや
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