たやうに、小山男爵は、横から口を入れた。
「第一『金色夜叉』なんか、あんなに世間で読まれてゐると云ふことが、通俗小説である第一の証拠だよ。万人向きの小説なんかに、碌なものがある訳はないからね。」
二人の、攻撃的な挑戦的な口調を聴いてゐると、信一郎もつい、ムカ/\となつてしまつた。瑠璃子夫人はと見ると、その平静な顔に、嗾《けし》かけるやうな微笑を湛へて、『貴君《あなた》も負けないで、しつかりおやりなさい。』と、云ふやうに信一郎の顔を見てゐた。
「それは可笑《をか》しいですな。」
さう云ひながら、信一郎は何処か貴族的な傲慢さが、漂《たゞよ》うてゐる小山男爵の顔をぢつと見た。
「そんな暴論はありませんよ。広く読まれてゐるのが、通俗小説の証拠ですつて、そんな暴論はないと思ひますね。さう云ふ議論をすれば、沙翁《シエクスピア》の戯曲だつて、通俗戯曲だと云ふことになるぢやありませんか。ホーマアの詩だつて、ダンテの神曲だつて、みんな広く読まれてゐると云ふ点で、通俗的作品と云ふことになりさうですね。僕は、さうは思ひませんよ。それと反対に、立派な芸術的作品ほど、時代が経てば、だん/\通俗化して行くのだと思ふのですね。トルストイの作品が日本などでも段々通俗化して来たやうに、通俗化して行かない作品こそ、却つて何かの欠陥があると思ふのですね。御覧なさい! 馬琴でも西鶴でも、通俗化して行けばこそ、後代に伝はるのぢやありませんか。『金色夜叉』が通俗化してゐるからと云つて、あの小説の芸術的価値を否定することは出来ませんよ。僕は芸術的に秀《すぐ》れてゐればこそ、民衆の教養が進むに従つて、段々通俗化して行つたのだと思ふのです。紅葉の考へ方や、観方はいかにも常識的かも知れません。が、然し作品全体の味とかその表現などにこそ、却つて芸術的な価値があるのぢやありませんか。あの作品の規模の大きさから云つても、画面的に描き出す手腕から云つても、明治時代無二の作家と云つてもよいと思ふのです。いや、あの鼈甲《べつかふ》牡丹のやうに、絢爛華麗な文章|丈《だけ》を取つても、優に明治文学の代表者として、推す価値が十分だと思ふのです。」
信一郎は、可なり熱狂して喋つた。法科に籍を置いてゐたが、高等学校に入学の当時には、父の反対さへなければ、欣んで文科をやつた筈の信一郎は、文学に就ては自分自身の見識を持つてゐた。
信一郎の意外な雄弁に、半可な文学通に過ぎない小山男爵は、もうとつくに圧倒されたと見え、その白い頬を、心持赤くしながら、不快さうに黙つてしまつた。
三宅は、云ひ込められた口惜しさを、何うかして晴さうと、駁論の筋道を考へてゐるらしく口の辺りをモグ/\させてゐた。
「渥美さんは、本当に立派な文芸批評家でいらつしやる。妾《わたくし》全く感心してしまひましたわ。」
瑠璃子夫人は、心から感心したやうに、賞讃の微笑を信一郎に注いだ。
信一郎は、女王の御前仕合で、見事な勝利を獲た騎士のやうに、晴れがましい揚々たる気持になつてゐた。
「然し……」と、三宅と云ふ青年が、必死になつて駁論を初めようとした時だつた。
廊下に面した扉《ドア》を、外からコツ/\と叩く音がした。
六
「誰方《どなた》!」
夫人は、扉《ドア》を叩く音に応じてさう云つた。
「僕です。」
外の人は明晰な、美しい声でさう答へた。
「あら、秋山さんなの。丁度よいところへ。」
夫人は、さう云ひながら、いそ/\と椅子を離れた。信一郎が、入つて来たときは、夫人はたゞ椅子から、腰を浮かした丈《だけ》だつたのに。
夫人が、手づから扉《ドア》を開けると、『僕です。』と、名乗つた男は、軽く会釈をしながら、入つて来た。信一郎は、一目見たときに、何処かで見覚えのある顔だと思つたが、一寸思ひ出せなかつた。が、一目見た丈《だけ》で、作家か美術家であることは、直ぐ解つた。白い面長な顔に、黒い長髪を獅子の立髪か何かのやうに、振り乱してゐた。が、頭は極端に奔放であるにも拘はらず、薩摩上布の衣物《きもの》に、鉄無地の絽の薄羽織を着た姿は、可なり瀟洒たるものだつた。夫人はその男とは、立ちながら話した。
「暫く御無沙汰致しました。」
「ほんたうに長い間お見えになりませんでしたのね。箱根へお出でになつたつて、新聞に出てゐましたが、行らつしやらなかつたの。」
「いや、何処へも行きやしません。」
「それぢや、やつぱり例の長篇で苦しんでゐらしつたの。本当に、妾《わたくし》の家へいらつしやる道を忘れておしまひになつたのかと思つてゐましたの。ねえ! 三宅さん。」
夫人は、三宅と云ふ学生を顧みた。
「やあ!」
「やあ!」
三宅とその男とは顔を見合して挨拶した。
「本当に、暫らくお見えになりませんでしたね。貴君《あなた》が、いらつしやら
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