さないのを見ると、三宅と云ふ文科の学生が、可なり熱心な口調でさう云つた。先刻から続いて、明治末期の小説家国木田独歩を論じてゐるらしかつた。
「それに、独歩のやうな作品は、外国の自然派の作家には幾何《いくら》でもあるのだからね。先駆者と云ふよりも、或意味では移入者だ。日本の文学に対して、ある新鮮さを寄与したことは確《たしか》だが、それがあの人の創造であるとは云はれないね。外国文学の移植なのだ。ねえ! さうではありませんか、奥さん!」
モーニングを着た小山男爵は、自分の見識に対する夫人の賞讃を期待してゐるやうに、自信に充ちて云つた。
「でも妾《わたくし》、可なり独歩を買つてゐますのよ。明治時代の作家で、本当に人生を見てゐた作家は、独歩の外にさう沢山はないやうに思ひますのよ。ねえ、さうぢやございませんか。渥美さん。」
夫人は、多くの男性の中から、信一郎|丈《だけ》を、選んだやうに、信一郎の賛意を求めた。が、信一郎は不幸にも、独歩の作品を、余り沢山読んでゐなかつた。四五年も前に、『運命論者』や『牛肉と馬鈴薯』などを読んだことがあるが、それが何う云ふ作品であつたか、もう記憶にはなかつた。が、夫人に話しかけられて、たゞ盲従的に返答することも出来なかつた。その上、彼は周囲の人達に対する手前、何か彼《か》にか自分の意見を云はねばならぬと思つた。
「さうかも知れません。が、明治文壇の第一の文豪として推すのには、少し偏してゐるやうに思ふのです。やはり、月並ですが、明治の文学は紅葉などに代表させたいと思ふのです。」
「尾崎紅葉!」小山男爵は、『クスツ』と冷笑するやうな口調で云つた。
「『金色夜叉』なんか、今読むと全然通俗小説ですね。」
文科の学生の三宅が、その冷笑を説明するやうに、吐出すやうに云つた。
瑠璃子夫人は、三宅の思ひ切つた断定を嘉納するやうに、ニツと微笑を洩した。信一郎は初めて、口を入れて、直ぐ横面《よこつつら》を叩かれたやうに思つた。瑠璃子夫人までが、微笑で以て、相手の意見を裏書したことが、更に彼の心を傷けた。彼は思はず、ムカ/\となつて来るのを何《ど》うともすることが出来なかつた。彼は、自分の顔色が変るのを、自分で感じながら、死身になつて口を開いた。
「『金色夜叉』を通俗小説だと云ふのですか。」
彼の口調は、詰問になつてゐた。
「無論、それは読む者の趣味の程度に依ることだが、僕には全然通俗小説だと思はれるのです。」
若い文科大学生は、何の遠慮もしないで、彼の信念を昂然と語つた。
「それは、貴君《あなた》が作品と時代と云ふことを考へないからです。現在の文壇の標準から云へば、『金色夜叉』の題目《テーマ》なんか、通俗小説に違《ちがひ》ないです。が、然しそれは『金色夜叉』の書かれた明治三十五年から、現在まで二十年も経過してゐることを忘れてゐるからです。現在の文壇で、貴君が芸術的小説だと信じてゐるものでも、二十年も経てば、みんな通俗小説になつてしまふのです。過去の作品を論ずるのには、時代と云ふことを考へなければ駄目です。『金色夜叉』は今読めば通俗小説かも知れませんが、明治時代の文学としては、立派な代表的作品です。」
信一郎は、思ひの外に、スラ/\と出て来る自分の雄弁に興奮してゐた。
「過去の文学を論ずるには、やはり文学史的に見なければ駄目です。」
彼は、きつぱりと断定するやうに云つた。
「それもさうですわね。」
瑠璃子夫人は、信一郎の素人離れした主張を、感心したやうに、しみ/″\さう云つた。信一郎は俄に勇敢になつて来た。
五
瑠璃子夫人が、新来の信一郎、殊に文学などの分りさうもない会社員の信一郎の言葉に、賛成したのを見ると、今度は三宅と小山男爵との二人が、躍気になつた。
殊に青年の三宅は、その若々しい浅黒い顔を、心持薄赤くしながら可なり興奮した調子で云つた。
「時代が経てば、どんな芸術的小説でも、通俗小説になる。そんな馬鹿な話があるものですか。芸術的小説は何時が来たつて、芸術的小説ですよ。日本の作家でも、西鶴などの小説には、何時が来ても亡びない芸術的分子がありますよ。天才的な閃《ひらめき》がありますよ。それに比べると、尾崎紅葉なんか、徹頭徹尾通俗小説ですよ。紅葉の考へ方とか物の観方と云ふものは、常識の範囲を、一歩も出てゐないのですからね。たゞ、洗練された常識に過ぎないのですよ。例へば『三人妻』など云ふ作品だつて如何にも三人の妻の性格を描き分けてあるけれども、それが世間に有り触れた常識的|型《タイプ》に過ぎないのですからね。紅葉を以て、明治時代の文学的常識を、代表させるのなら差支へないが、第一の文豪として、紅葉を推す位なら、むしろ露伴柳浪美妙、そんな人の方を僕は推したいね。」
三宅の語り終るのを待ち兼ね
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