と立ち竦んだ時には、もう半身は客間の中に入つてゐた。
 凡てが、意外だつた。瑠璃子夫人の華奢なスラリとした、身体の代りに、其処に十人に近い男性が色々な椅子に、いろいろな姿勢で以つて陣取つてゐた。瑠璃子夫人はと見ると、これらの惑星に囲まれた太陽のやうに、客間の中央に、女王のやうな美しさと威厳とを以て、大きい、彼女の身体を埋《うづ》めてしまひさうな腕椅子に、ゆつたりと腰を下してゐた。
 楽しい予想が、滅茶々々になつてしまつた信一郎は、もし事情が許すならば、一目散に逃げ出したいと思つた。が、彼が一足踏み入れた瞬間に、もうみんなの視線は、彼の上に蒐まつてゐた。
「あゝ、お前もやつて来たのだな。」と、云つたやうな表情が、薄笑ひと共に、彼等の顔の上に浮んでゐた。信一郎は、さうした表情に依つて可なり傷けられた。
 瑠璃子夫人は、遉《さすが》に目敏く彼を見ると、直ぐ立ち上つた。
「あ、よくいらつしやいました。さあ、どうぞ。お掛け下さいまし。先刻からお待ちしてゐました。」
 さう云ひながら、彼女は部屋の中を見廻して、空椅子を見付けると、その空椅子の直ぐ傍にゐた学生に、
「あゝ阿部さん一寸その椅子を!」と、云つた。
 するとその学生は、命令をでも受けたやうに、
「はい!」と、云つて気軽に立ち上ると、その椅子を、夫人の美しい眼で、命ずるまゝに、夫人の腕椅子の直ぐ傍へ持つて来た。
「さあ! お掛けなさいませ。」
 さう云つて、夫人は信一郎を麾《さしま》ねいた。孰《どち》らかと云へば、小心な信一郎は、多くの先客を押し分けて、夫人の傍近く坐ることが、可なり心苦しかつた。彼は、自分の頬が、可なりほてつて来るのに気が付いた。
 信一郎が椅子に着かうとすると夫人は一寸押し止めるやうにしながら云つた。
「さう/\。一寸御紹介して置きますわ。この方、法学士の渥美信一郎さん。三菱へ出ていらつしやる。それから、茲にいらつしやる方は、――さう右の端から順番に起立していたゞくのですね、さあ小山さん!」
 と彼女は傍若無人と云つてもよいやうに、一番縁側の近くに坐つてゐる、若いモーニングを着た紳士を指《ゆびさ》した。紳士は、柔順《すなほ》にモヂ/\しながら立ち上つた。
「外務省に出ていらつしやる小山男爵。その次の方が、洋画家の永島龍太さん。其の次の方が、帝大の文科の三宅さん、作家志望でいらつしやる。その次の方が、慶応の理財科の阿部さん、第一銀行の重役の阿部保さんのお子さん。その次の方が日本生命へ出ていらつしやる深井さん、高商出身の。その次の方が、寺島さん、御存じ? 近代劇協会にゐたことのある方ですわ。其の次の方は、芳岡さん! 芳岡伯爵の長男でいらつしやる。彼処《あそこ》に一人離れていらつしやる方が、富田さん! 政友会の少壮代議士として有名な方ですわ。みんな私《わたくし》のお友達ですわ。」
 夫人は、夫人の眼に操られて、次から次へと立ち上る男性を、出席簿でも調べるやうに、淀みなく紹介した。
 信一郎は、可なり激しい失望と幻滅とで、夫人の言葉が、耳に入らぬ程不愉快だつた。自分一人を友達として選ぶと云つた夫人が、十人に近い男性を、友人として自分に紹介しようとは、彼は憤怒と嫉妬との入り交じつたやうな激昂で、眼が眩《くら》めくやうにさへ感じた。彼は直ぐ席を蹴つて帰りたいと思つた。が、何事もないやうに、こぼれるやうに微笑してゐる夫人の美しい顔を見てゐると、胸の中の激しい憤怒が春風に解くるやうに、何時の間にか、消えてゆくのを感じた。
 コロネーションに結つた黒髪は、夫人の長身にピツタリと似合つてゐた。黒地に目も醒めるやうな白い棒縞のお召が、夫人の若々しさを一層引立てゝゐた。白地の仏蘭西《フランス》縮緬の丸帯に、施された薔薇の刺繍は、匂入りと見え、人の心を魅するやうな芳香が、夫人の身辺を包んでゐる。
 信一郎の失望も憤怒も、夫人の鮮《あざやか》な姿を見てゐると、何時の間にか撫でられるやうに、和《なご》んで来るのだつた。

        四

「渥美さん! 今大変な議論が始まつてゐるのでございますよ。明治時代第一の文豪は、誰だらうと云ふ問題なのでございますよ。貴君の御説も伺はして下さいませな。」
 夫人は、信一郎を会話の圏内に入れるやうに、取り做して呉れた。が、初めて顔を合はす未知の人々を相手にして、直ぐおいそれ! と文学談などをやる気にはなれなかつた。その上に、夫人から、帝劇のボックスで聴いた「こんなに打ち解けた話をするのは、貴君《あなた》が初めてなのよ。」と、云ふやうな、今となつては白々しい嘘が、彼の心を抉るやうに思ひ出された。
「だつて奥さん! 独歩には、いゝ芽があるかも知れません。が、然しあの人は先駆者だと思ふのです。本当に完成した作家ではないと思ふのです。」
 信一郎が、何も云ひ出
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