、恋愛の階段であると、夫人が云つた。もしそれがさうなつたら、何うしたらよいだらう。あの自由奔放な夫人は、屹度《きつと》云ふだらう。
「それが、さうなつたつて、別に差支はないのよ。」
 夫のない夫人はそれで差支がないかも知れない。が、自分は何《ど》うしたらいゝだらう。妻のある自分は。結婚して間もない愛妻のある自分は。
 信一郎は、さうした取りとめもない空想に頭を悩ましながら、七月の最初の日曜の午後に、夫人を訪ねるべく家を出た。
 夫人を訪ねるのも、二度目であつた。が、妻を欺くのも二度目であつた。
「社の連中と、午後から郊外へ行く約束をしたのでね。新宿で待ち合はして、多摩川へ行く筈なのだよ。」
 帽子を持つて送つて出た静子に、彼は何気なくさう云つた。

        二

 電車に乗つてからも、妻を欺いたと云ふ心持が、可なり信一郎を苦しめた。が、あの美しい夫人が自分を[#「自分を」はママ]尋ねて行くのを、ぢつと待つてゐて呉れるのだと思ふと、電車の速力さへ平素《いつも》よりは、鈍いやうに思はれた。
 夫人と会つてからの、談話の題目などが、頭の中に次から次へと、浮んで来た。文芸や思想の話に就ても、今日はもつと、自分の考へも話して見よう。自分の平生の造詣を、十分披瀝して見よう。信一郎はさう考へながら、夫人のそれに対する溌剌たる受答《うけこたへ》や表情を絶えず頭の中に描き出しながら何時の間にか五番町の宏壮な夫人の邸宅の前に立つてゐる自分を見出した。
 お濠の堤《どて》の青草や、向う側の堤の松や、大使館前の葉桜の林などには、十日ほど前に来たときなどよりも、もつと激しい夏の色が動いてゐた。
 十日ほど前には、可なりビク/\と潜つた花崗石《みかげいし》らしい大石門を、今日は可なり自信に充ちた歩調で潜ることが出来た。
 楓を植ゑ込んである馬車廻しの中に、たゞ一本の百日紅《さるすべり》が、もう可なり強い日光の中に、赤く咲き乱れてゐるのが目に付いた。
 遉《さすが》に、大理石の柱が、並んでゐる車寄せに立つたとき、胸があやしく動揺するのを感じた。が、夫人が別れ際に、再び繰り返して、
「本当にお暇なとき、何時でもいらしつて下さい。誰も気の置ける人はゐませんのよ。妾《わたくし》がお山の大将をしてゐるのでございますから。」と、言つた言葉が、彼に元気を与へた。その上に、あれほど堅く約束した以上、屹度《きつと》心から待つてゐて呉れるに違《ちがひ》ない。心から、歓び迎へて呉れるに違《ちがひ》ない。さう思ひながら、彼は「|押せ《プッセ》!」と、仏蘭西《フランス》語で書いてある呼鈴に手を触れた。
 この前、来たときと同じやうに、小さい軽い靴音が、それに応じた。扉《ドア》が静《しづか》に押し開けられると、一度見たことのある少年が、名刺受の銀の盆を、手にしながら、笑靨《ゑくぼ》のある可愛い顔を現した。
「あのう、奥様にお目にかゝりたいのですが。」
 信一郎が、さう言ふと少年は待つてゐたと云はんばかりに、
「失礼でございますが、渥美さまとおつしやいますか。」
 信一郎は軽く肯いた。
「渥美さまなら、直ぐ何うかお通り下さいませ。」
 少年は、慇懃に扉《ドア》を開けて、奥を指《ゆびさ》した。
「何うか此方《こちら》へ。今日は奥の方の客間にいらつしやいますから。」
 敷き詰めてある青い絨毯の上を、少年の後から歩む信一郎の心は、可なり激しく興奮した。自分の名前を、ちやんと玄関番へ伝へてある夫人の心遣ひが、嬉しかつた。一夜夫人と語り明したことさへ生涯に二度と得がたい幸福であると思つてゐた。それが、一夜限りの空しい夢と消えないで、実生活の上に、ちやんとした根を下して来たことが、信一郎には此上なく嬉しかつた。彼は絨毯の上を、しつかりと歩んでゐた積《つもり》であつたが、もし傍観者があつたならば、その足付が、宛然《まるきり》躍つてゐるやうに見えたかも知れない。夫人と、美しい客間で二人|限《ぎ》り、何の邪魔もなしに、日曜の午後を愉快に語り暮すことが出来る。さうした楽しい予感で、信一郎の心は、はち切れさうに一杯だつた。
 長い廊下を、十間ばかり来たとき、少年は立ち止まつて、其処の扉《ドア》を指《ゆびさ》した。
「此方《こちら》でございます。」
 信一郎は、その中に瑠璃子夫人が、腕椅子に身体を埋ませるやうに掛けながら、自分を待つてゐるのを想像した。
 彼は、興奮の余り、かすかに顫へさうな手を扉《ドア》の把手にかけた。彼が、胸一杯の幸福と歓喜とに充されて、その扉《ドア》を静かに開けたとき、部屋の中から、波の崩れるやうに、ワーツと彼を襲つて来たものは、数多い男性が一斉に笑つた笑ひ声だつた。
 彼は、不意に頭から、水をかけられたやうに、ゾツとして立ち竦《すく》んだ。

        三

 彼がハツ
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