つた。美しい妖精に魅せられた少年のやうに、信一郎は顔を薄赤く、ほてらせながら、たゞ茫然と黙つてゐた。
 夫人は、ひらりと身を躱《かは》すやうに、真面目なしんみりとした態度に帰つてゐた。
「でも、妾《わたくし》、こんな打ち解けたお話をするのは、貴君が初めてなのよ、文学や思想などに、理解のない方に、こんなお話をすると、直ぐ誤解されてしまふのですもの、妾《わたくし》、かねてから、貴君《あなた》のやうなお友達が欲しかつたの、本当に妾《わたくし》の心持を、聴いて下さるやうな男性のお友達が、欲しかつたの、二人の異性の間には、真の友情は成り立たないなどと云ふのは嘘でございますわね、異性の間の友情は、恋愛への階段だなどと云ふのは、嘘でございますわね。本当に自覚してゐる異性の間なら、立派な友情が何時までも続くと思ひますの。貴方《あなた》と妾《わたくし》との間で、先例を開いてもいゝと思ひますわ。ほゝゝゝ。」
 夫人は、真の友情を説きながらも、その美しい唇は、悩ましきまでに、信一郎の右の頬近く寄せられてゐた。信一郎は、うつとりとした心持で、阿片《アヘン》吸入者が、毒と知りながら、その恍惚たる感覚に、身体を委せるやうに、夫人の蜜のやうに[#「蜜のやうに」は底本では「密のやうに」]甘い呼吸と、音楽のやうに美しい言葉とに全身を浸してゐた。


 客間の女王

        一

 帝劇のボックスに、夫人と肩を並べて、過した数時間は、信一郎に取つては、夢とも現《うつゝ》とも分ちがたいやうな恍惚たる時間だつた。
 夫人の身体全体から出る、馥郁たる女性の香が、彼の感覚を爛し、彼の魂を溶かしたと云つてもよかつた。
 彼は、其夜、半蔵門迄、夫人と同乗して、其処で新宿行の電車に乗るべく、彼女と別れたとき、自動車の窓から、夜目にもくつきりと白い顔を、のぞかしながら、
「それでは、此次の日曜に屹度《きつと》お訪ね下さいませ。」と、媚びるやうな美しい声で叫んだ夫人の声が、彼の心の底の底まで徹するやうに思つた。彼は、其処に化石した人間のやうに立ち止まつて、葉桜の樹下闇を、ほの/″\と照し出しながら、遠く去つて行く自動車の車台の後の青色の灯を、何時までも何時までも見送つてゐた。彼の頬には、尚夫人の甘い快い呼吸《いき》の匂が漂うてゐた。彼の耳の底には、夫人の此世ならぬ美しい声の余韻が残つてゐた。彼の感覚も心も、夫人に酔うてゐた。
 彼の耳に囁かれた夫人の言葉が、甘い蜜のやうな言葉が、一つ/\記憶の裡に甦がへつて来た。『自分を理解して呉れる最初の男性』とか、『そんな女性をお好きぢやありませんの』と云つたやうな馴々しい言葉が、それが語られた刹那の夫人の美しい媚のある表情と一緒に、信一郎の頭を悩ました。
 自分が、生れて始めて会つたと思ふほどの美しい女性から、唯一人の理解者として、馴々しい信頼を受けたことが、彼の心を攪乱し、彼の心を有頂天にした。
 彼の頭の裡には、もう半面紫色になつた青木淳の顔もなかつた。謎の白金《プラチナ》の時計もなかつた。愛してゐる妻の静子の顔までが、此の※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]たけた瑠璃子夫人の美しい面影のために、屡々掻き消されさうになつてゐた。
 十二時近く帰つて来た夫を、妻は何時ものやうに無邪気に、何の疑念もないやうに、いそいそと出迎へた。さうした淑《しとや》かな妻の態度に接すると、信一郎は可なり、心の底に良心の苛責を感じながらも、しかも今迄は可なり美しく見えた妻の顔が、平凡に単純に、見えるのを何《ど》うともすることが出来なかつた。
 その次ぎの日曜まで、彼は絶えず、美しい夫人の記憶に悩まされた。食事などをしながらも、彼の想像は美しい夫人を頭の中に描いてゐることが多かつた。
「あら、何をそんなにぼんやりしていらつしやいますの、今度の日曜は何日? と云つてお尋ねしてゐるのに、たゞ『うむ! うむ!』云つていらつしやるのですもの。何をそんなに考へていらつしやるの?」
 静子は、夫がボンヤリしてゐるのが、可笑しいと云ひながら、給仕をする手を止めて、笑ひこけたりした。夫が、他の女性のことを考へて、ボンヤリしてゐるのを、可笑しいと云つて無邪気に笑ひこける妻のいぢらしさが、分らない信一郎ではなかつたが、それでも彼は刻々に頭の中に、浮んで来る美しい面影を拭ひ去ることが出来なかつた。
 到頭夫人と約束した次ぎの日曜日が来た。その間の一週間は、信一郎に取つては、一月も二月もに相当した。彼は、自分がその日曜を待ちあぐんでゐるやうに、夫人がやつぱりその日曜を待ち望んでゐて呉れることを信じて疑はなかつた。
 夫人が、自分を唯一人の真実の友達として、選んで呉れる。夫人と自分との交情が発展して行く有様が、いろ/\に頭の中に描かれた。異性の間の友情は
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