橋へ、人を見送りに行つたと云ふ以上、二時間もすれば帰つて来るべき筈の夫を、夕餉の支度を了へて、ボンヤリと待ちあぐんでゐる妻の邪気《あどけ》ない面影が、暫らく彼の頭を支配した。その妻を、十時過ぎ、恐らく十一時過ぎ迄も待ちあぐませることが、どんなに妻の心を傷ませることであるかは、彼にもハツキリと分つてゐた。
「如何でございます。そんなにお考へなくつても、手軽に定《き》めて下さつても、およろしいぢやありませんか。」
夫人は躊躇してゐる信一郎の心に、拍車を加へるやうに、やゝ高飛車にさう云つた。信一郎の顔をぢつと見詰めてゐる夫人の高貴《ノーブル》な厳かに美しい面《おもて》が、信一郎の心の内の静子の慎しい可愛い面影を打ち消した。
「さうだ! 静子と過すべき晩は、これからの長い結婚生活に、幾夜だつてある。飽き/\するほど幾夜だつてある。が、こんな美しい夫人と、一緒に過すべき機会がさう幾度もあるだらうか。こんな浪漫的《ロマンチック》な美しい機会が、さう幾度だつてあるだらうか。生涯に再びとは得がたいたゞ一度の機会であるかも知れない。かうした機会を逸しては……」
さう心の中で思ふと、信一郎の心は、籠を放れた鳩か何かのやうに、フハ/\となつてしまつた。彼は思ひ切つて云つた。
「もし貴女さへ、御迷惑でなければお伴いたしてもいゝと思ひます。」
「あらさう。付き合つて下さいますの。それぢや、直ぐ、丸の内へ。」
夫人は、後の言葉を、運転手へ通ずるやうに声高く云つた。
自動車は、緩みかけた爆音を、再び高く上げながら、車首を転じて、夜の須田町の混雑の中を泳ぐやうに、馳けり始めた。
電車道の、鋪石《ペーヴメント》が悪くなつてゐる故《せゐ》か、車台は頻りに動揺した。信一郎の心も、それに連れて、軽い動揺を続けてゐる。
車が、小川町の角を、急に曲つたとき、夫人は思ひ出したやうに、とぼけたやうに訊いた。
「失礼ですが、奥様おありになつて?」
「はい。」
「御心配なさらない! 黙つて行《い》らしつては?」
「いゝえ。決して。」
信一郎は、言葉|丈《だけ》は強く云つた。が、その声には一種の不安が響いた。
九
帝劇の南側の車寄の階段を、夫人と一緒に上るとき、信一郎の心は、再び動揺した。この晴れがましい建物の中に、其処にはどんな人々がゐるかも知れない群衆の中へ、かうした美しい、それ丈《だけ》人目を惹き易い女性と、たつた二人連れ立つて、公然と入つて行くことが、可なり気になつた。
が、信一郎のさうした心遣ひを、救けるやうに、舞台では今丁度幕が開いたと見え、廊下には、遅れた二三の観客が、急ぎ足に、座席《シート》へ帰つて行くところだつた。
夫人と並んで、広い空しいボックスの一番前方に、腰を下したとき、信一郎はやつと、自分の心が落着いて来るのを感じた。舞台が、煌々と明るいのに比べて、観客席が、ほの暗いのが嬉しかつた。
夫人は席へ着いたとき、二三分ばかり舞台を見詰めてゐたが、ふと信一郎の方を振り返ると、
「本当に御迷惑ぢやございませんでしたの。芝居はお嫌ひぢやありませんの。」
「いゝえ! 大好きです。尤も、今の歌舞伎芝居には可なり不満ですがね。」
「妾《わたくし》も、さうですの。外に行く処もありませんからよく参りますが、妾《わたくし》達の実生活と歌舞伎芝居の世界とは、もう丸きり違つてゐるのでございますものね。歌舞伎に出て来る女性と云へば、みんな個性のない自我のない、古い道徳の人形のやうな女ばかりでございますのね。」
「同感です。全く同感です。」
信一郎は、心から夫人の秀れた見識を讃嘆した。
「親や夫に臣従しないで、もつと自分本位の生活を送つてもいゝと思ひますの。古い感情や道徳に囚はれないで、もつと解放された生活を送つてもいゝと思ひますの。英国のある近代劇の女主人公が、男が雲雀《スカイラーク》のやうに、多くの女と戯れることが出来るのなら、女だつて雲雀《スカイラーク》のやうに、多くの男と戯れる権利があると申してをりますが、さうぢやございませんでせうか。妾《わたくし》もさう思ふことがございますのよ。」
夫人は、周囲の静けさを擾さないやうに、出来る丈《だけ》信一郎の耳に口を寄せて語りつゞけた。夫人の温い薫るやうな呼吸が、信一郎のほてつた頬を、柔かに撫でるごとに、信一郎は身体中が、溶《とろ》けてしまひさうな魅力を感じた。
「でも、貴君《あなた》なんか、さうした女性は、お好きぢやありませんでせうね。」さう、信一郎の耳に、あたゝかく囁いて置きながら、夫人は顔を少し離して嫣然《につこり》と笑つて見せた。男の心を、掻き擾してしまふやうな媚が、そのスラリとした身体全体に動いた。
夫人の大胆な告白と、美しい媚のために、信一郎は、目が眩んだやうに、フラ/\としてしま
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