はありませんわ。」
「メリメは、どんなものがお好きです。」
「みんないゝぢやありませんか。カルメンなんか、日本では通俗な名前になつてしまひましたが、原作はほんたうにいゝぢやありませんか。」
「あの女主人公《ヒロイン》を何うお考へになります。」
「好きでございますよ。」
言下にさう答へながら、夫人は嫣然と笑つた。
「妾《わたくし》さう思ひますのよ。女に捨てられて、女を殺すなんて、本当に男性の暴虐だと思ひますの。男性の甚だしい我儘だと思ひますの。大抵の男性は、女性から女性へと心を移してゐながら、平然と済してゐますのに、女性が反対に男性から男性へと、心を移すと、直ぐ何とか非難を受けなければなりませんのですもの。妾《わたくし》、ホセに刺し殺されるカルメンのことを考へる度毎に、男性の我儘と暴虐とを、憤らずにはゐられないのです。」
夫人の美しい顔が、興奮してゐた。やゝ薄赤くほてつた頬が、悩しいほどに、魅惑的《チャーミング》であつた。
信一郎は生れて初めて、男性と対等に話し得る、立派な女性に会つたやうに思つた。彼は、はしなくも、自分の愛妻の静子のことを考へずにはゐられなかつた。彼女は、愛らしく慎しく従順貞淑な妻には違ひない。が、趣味や思想の上では、自分の間に手の届かないやうに、広い/\隔《へだゝり》が横はつてゐる。天気の話や、衣類の話や、食物の話をするときには立派な話相手に違ひない。
が、話が少しでも、高尚になり精神的になると、もう小学生と話してゐるやうな、もどかしさ[#「もどかしさ」に傍点]と頼りなさがあつた。同伴の登山者が、わづか一町か二町か、離れてゐるのなら、麾《さしまね》いてやることも出来れば、声を出して呼んでやることも出来た。が、二十町も三十町も離れてゐれば、何《ど》うすることも出来ない。信一郎は、趣味や思想の生活では、静子に対してそれほどの隔《へだたり》を感ぜずにはゐられなかつた。
が、彼は今までは、諦めてゐた。日本婦人の教養が現在の程度で止まつてゐる以上、さうしたことを、妻に求めるのは無理である。それは妻一人の責任ではなくして、日本の文化そのものの責任であると。
が、彼は今瑠璃子夫人と会つて話してゐると、日本にも初めて新しい、趣味の上から云つても、思想の上から云つても優に男性と対抗し得るやうな女性の存在し始めたことを知つたのである。夫人と話してゐると、妻の静子に依つて充されなかつた欲求が、わづか三四分の同乗に依つて、十分に充たされたやうに思つた。
さう思つたとき、その貴い三四分間は、過ぎてゐた。自動車は、万世橋の橋上を、やゝ速力を緩めながら、走つてゐた。
「いやどうも、大変有難うございました。」
信一郎は、さう挨拶しながら、降りるために、腰を浮かし始めた。
その時に、瑠璃子夫人は、突然何かを思ひ出したやうに云つた。
「貴君《あなた》! 今晩お暇ぢやなくつて?」
八
「貴君! 今晩お閑暇《ひま》ぢやなくつて。」
と、云ふ思ひがけない問に、信一郎は立ち上らうとした腰を、つい降してしまつた。
「閑暇《ひま》と云ひますと。」
信一郎は、夫人の問の真意を解しかねて、ついさう訊き返さずにはゐられなかつた。
「何かお宅に御用事があるかどうか、お伺ひいたしましたのよ。」
「いゝえ! 別に。」
信一郎は夫人が、何を云ひ出すだらうかと云ふ、軽い好奇心に胸を動かしながら、さう答へた。
「実は……」夫人は、微笑を含みながら、一寸云ひ澱んだが、「今晩、演奏が済みますと、あの兄妹の露西亜《ロシア》人を、晩餐|旁《かた/″\》帝劇へ案内してやらうと思つてゐましたの。それでボックスを買つて置きましたところ、向うが止むを得ない差支があると云つて、辞退しましたから妾《わたくし》一人でこれから参らうかと思つてゐるのでございますが、一人ボンヤリ見てゐるのも、何だか変でございませう。如何でございます、もし、およろしかつたら、付き合つて下さいませんか。どんなに有難いか分りませんわ。」
夫人は、心から信一郎の同行を望んでゐるやうに、余儀ないやうに誘つた。
信一郎の心は、さうした突然の申出を聴いた時、可なり動揺せずにはゐなかつた。今までの三四分間でさへ彼に取つてどれほど貴重な三四分間であるか分らなかつた。夫人の美しい声を聞き、その華やかな表情に接し、女性として驚くべきほど、進んだ思想や趣味を味はつてゐると、彼には今まで、閉されてゐた楽しい世界が、夫人との接触に依つて、洋々と開かれて行くやうにさへ思はれた。
さうした夫人と、今宵一夜を十分に、語ることが出来ると云ふことは、彼にとつてどれほどな、幸福と欣びを意味してゐるか分らなかつた。
彼は、直ぐ同行を承諾しようと思つた。が、その時に妻の静子の面影が、チラツと頭を掠め去つた。新
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