、彼の生涯に再び得がたい貴重な三四分のやうに思はれた。彼の生涯を通じて、宝石のやうに輝く、尊い瞬間のやうに思はれた。彼は、その時間を心の底から、享け入れようと思つてゐた。が、さう決心した刹那に、もう自動車は、公園の蒼い樹下闇《このしたやみ》を、後に残して、上野山下に拡がる初夏の夜、さうだ、豊《ゆたか》に輝ける夏の夜の描けるが如き、光と色との中に、馳け入つてゐるのだつた。時は速い翼を持つてゐる。が、此の三四分の時間は、電光その物のやうに、アツと云ふ間もなく過ぎ去らうとしてゐる。
試験の答案を書く時などに、時間が短ければ短いほど、冷静に筆を運ばなければならないのに、時間があまりに短いと、却《かへつ》てわく/\して、少しも手が付かないやうに、信一郎も飛ぶが如くに、過ぎ去らうとする時間を前にして、たゞ茫然と手を拱いてゐる丈《だけ》だつた。
然るに、瑠璃子夫人は悠然と、落着いてゐた。親しい友達か、でなければ自分の夫とでも、一緒に乗つてゐるやうに、微笑を車内の薄暗《うすやみ》に、漂はせながら、急に話しかけようともしなかつた。
丁度、自動車が松坂屋の前にさしかゝつた時、信一郎は、やつと――と言つても、たゞ一分間ばかり黙つてゐたのに過ぎないが――会話の緒《いとぐち》を見付けた。
「先刻、一寸立ち聴きした訳ですが、大変|仏蘭西《フランス》語が、お上手でいらつしやいますね。」
「まあ! お恥かしい。聴いていらしつたの。動詞なんか滅茶苦茶なのですよ。単語を並べる丈。でもあのアンナと云ふ方、大変感じのいゝ方よ。大抵お話が通ずるのですよ。」
「何うして滅茶苦茶なものですか。大変感心しました。」
信一郎は心でもさう思つた。
「まあ! お賞めに与つて有難いわ。でも、本当にお恥かしいのですよ。ほんの二年ばかり、お稽古した丈《だけ》なのですよ。貴君は仏法の出身でいらつしやいますか。」
「さうです。高等学校時代から、六七年もやつてゐるのですが、それで会話と来たら、丸切り駄目なのです。よく、会社へ仏蘭西《フランス》人が来ると、私|丈《だけ》が仏蘭西《フランス》語が出来ると云ふので、応接を命ぜられるのですが、その度毎に、閉口するのです。奥さんなんか、このまゝ直ぐ外交官夫人として、巴里《パリー》辺の社交界へ送り出しても、立派なものだと思ひます。」
信一郎は、つい心からさうした讃辞を呈してしまつた。
「外交官の夫人! ほゝゝ、妾《わたくし》などに。」
さう云つたまゝ、夫人の顔は急に曇つてしまつた。外交官の夫人。彼女の若き日の憧れは、未来の外交官たる直也の妻として、遠く海外の社交界に、日本婦人の華として、咲き出《いづ》ることではなかつたか。彼女が、仏蘭西《フランス》語の稽古をしたことも、みんなさうした日のための、準備ではなかつたか。それもこれも、今では煙の如く空しい過去の思出となつて了つてゐる。外交官の夫人と云はれて、彼女の華やかな表情が、急に光を失つたのも無理はなかつた。
瞬間的な沈黙が、二人を支配した。自動車は御成街道の電車の右側の坦々たる道を、速力を加へて疾駆してゐた。万世橋迄は、もう三町もなかつた。
信一郎は、もつとピツタリするやうな話がしたかつた。
「仏蘭西《フランス》文学は、お好きぢやございませんか。」
信一郎は、夫人の顔を窺ふやうに訊いた。
「あのう――好きでございますの。」
さう云つたとき、夫人の曇つてゐた表情が、華やかな微笑で、拭ひ取られてゐた。
「大好きでございますの。」
夫人は、再び強く肯定した。
七
「仏蘭西《フランス》文学が大好きですの。」と、夫人が答へた時、信一郎は其処に夫人に親しみ近づいて行ける会話の範囲が、急に開けたやうに思つた。文学の話、芸術の話ほど、人間を本当に親しませる話はない。同じ文学なり、同じ作家なりを、両方で愛してゐると云ふことは、ある未知の二人を可なり親しみ近づける事だ。
信一郎は、初めて夫人と交すべき会話の題目が見付かつたやうに欣びながら、勢よく訊き続けた。
「やはり近代のものをお好きですか、モウパッサンとかフローベルなどとか。」
「はい、近代のものとか、古典《クラシックス》とか申し上げるほど、沢山はよんでをりませんの。でも、モウパッサンなんか大嫌ひでございますわ。何うも日本の文壇などで、仏蘭西《フランス》文学とか露西亜《ロシア》文学だとか申しましても、英語の廉価版《チープエヂション》のある作家ばかりが、流行《はや》つてゐるやうでございますわね。」
信一郎は、瑠璃子夫人の辛辣な皮肉に苦笑しながら訊いた。
「モウパッサンが、お嫌ひなのは僕も同感ですが、ぢや、どんな作家がお好きなのです?」
「一等好きなのは、メリメですわ。それからアナトール・フランス、オクターヴ・ミルボーなども嫌ひで
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