音楽会の会員だつたのです。」
「ピアノお奏《ひ》きになつて?」
「簡単なバラッドや、マーチ位は奏《ひ》けます。はゝゝゝゝ。」
「ピアノお持ちですか。」
「いゝえ。」
「ぢや、妾《わたくし》の宅へ時々、奏《ひ》きにいらつしやいませ。誰も気の置ける人はゐませんから。」
 彼女は、薄気味の悪いほど、馴々しかつた。その時に、壇上には、妹のアンナが立つてゐた。
「バラキレフの『イスラメイ』を演《や》るのですね。随分難しいものを。」
 さう云ひながら、彼女は立ち上つた。
「みんなが、妾《わたくし》を探してゐるやうですから、失礼いたしますわ。会が終りましたら、階下《した》の食堂でお茶を一緒に召上りませんか。約束して下さいますでせうね。」
「はあ! 結構です。」
 信一郎は、何かの命令をでも、受けたやうに答へた。
「それでは後ほど。」
 彼女は、軽く会釈すると、静まり返つてゐる聴衆の間の通路を、怯《わるび》れもせず遥か前方の自分の席へ帰つて行つた。信一郎は可なり熱心な眼付で、彼女を見送つた。
 彼女が、席に着かうとしたとき彼女の席の周囲にゐた、多くの男性と女性とは、彼女が席に帰つて来たのを、女王でもが、帰還したやうに、銘々に会釈した。彼女が多くの男性に囲まれてゐるのを見ると、信一郎の心は、妙な不安と動揺とを感ぜずにはゐられなかつたのである。

        四

 それから、演奏が終つてしまふまで、信一郎は、ピアノの快い旋律と、瑠璃子夫人の残して行つた魅惑的な移り香との中に、恍惚として夢のやうな時間を過してしまつた。
 最後の演奏が終つて、華やかな拍手と共に、皆が立ち上つたとき、信一郎は夢から、さめたやうに席を立ち上つた。
 彼は、自分から先刻《さつき》の約束を守るために、瑠璃子夫人を探し求めるほど大胆ではなかつた。それかと云つて、その儘帰つてしまふには、彼は夫人の美しさに、支配され過ぎてゐた。彼は聴衆に先立つて階段を降りたものゝ、階段の下で誰かを待つてでもゐるやうに、躊躇してゐた。
 美しい女性の流れが、暫らくは階段を滑つてゐた。が、待つても、待つても夫人の姿は見えなかつた。
 彼が、待ちあぐんでゐる裡に、聴衆は降り切つてしまつたと見え、下足の前に佇んでゐる人の数がだん/\疎《まばら》になつて来た。
 彼は『一緒にお茶を飲まう。』と云ふことが、たゞ一寸した、夫人のお世辞であつたのではないかと思つた。それを金科玉条のやうに、一生懸命に守つて、待ちつゞけてゐた自分が、少し馬鹿らしくなつた。夫人は、屹度《きつと》混雑を避けて、別の出口から、もうとつくに帰り去つたに違ひない。さう思つて、彼が軽い失望を感じながら、踵《きびす》を返さうとした時だつた。階段の上から、軽い靴音と、やさしい衣擦《きぬずれ》の音と、流暢な仏蘭西《フランス》語の会話とが聞えて来た。彼が、軽い駭《おどろ》きを感じて、見上げると、階段の中途を静《しづか》に降りかかつてゐるのは、今日の花形《スタア》なるアンナ・セザレウ※[#小書き片仮名ヰ、164−下−11]ッチと瑠璃子夫人とだつた。その二人の洗ひ出したやうな鮮さが、信一郎の心を、深く深く動かした。一種敬虔な心持をさへ懐かせた。白皙な露西亜《ロシア》美人と並んでも、瑠璃子夫人の美しさは、その特色を立派に発揮してゐた。殊に、そのスラリとして高い長身は、凡ての日本婦人が白人の女性と並び立つた時の醜さから、彼女を救つてゐた。
 信一郎は、うつとり[#「うつとり」に傍点]として、名画の美人画をでも見るやうに、暫らくは見詰めてゐた。
 それと同じやうに、彼を駭かしたものは瑠璃子夫人の暢達な仏蘭西《フランス》語であつた。仏法出の法学士である信一郎は、可なり会話にも自信があつた。が、水の迸しるやうに、自然に豊富に、美しい発音を以て、語られてゐる言葉は、信一郎の心を魅し去らずにはゐなかつた。
 瑠璃子は、階段の傍に、ボンヤリ立つてゐる信一郎には、一瞥も与へないで、アンナを玄関まで送つて行つた。
 其処で、後から来た兄のセザレウ※[#小書き片仮名ヰ、165−上−4]ッチを待ち合はすと、兄妹が自動車に乗つてしまふ迄、主催者の貴婦人達と一緒に見送つてゐた。彼女一人、兄妹を相手に、始終快活に談笑しながら。
 兄妹を乗せた自動車が、去つてしまふと、彼女は、初めて信一郎を見付けたやうに、いそいそと彼の傍へやつて来た。
「まあ! 待つてゐて下さいましたの。随分お待たせしましたわ。でも兄妹を送り出すまで、幹事として責任がございますの。」
 彼女は、さう云ひながら、帯の間から、時計を取り出して見た。それはやつぱり白金《プラチナ》の時計だつた。それを見た刹那、不安ないやな連想が、電光《いなづま》のやうに、信一郎の心を走せ過ぎた。
「おやもう、六時でございますわ。お茶な
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