な、碧い眸と、白い雪のやうな頬とを持つた美しい娘だつた。彼女は微笑を含んだ会釈で喝采に応へると、水色のスカートを飜しながら、快活にピアノに向つて腰を降した。と、思ふと、その白い蝋のやうな繊手は、直ぐ霊活な蜘蛛か何かのやうに、鍵盤の上を、駈け廻り始めた。曲は、露西亜《ロシア》の国民音楽家の一人として名高いボロディンの譚歌《バラッド》だつた。
 その素朴な、軽快な旋律に、耳を傾けながら、信一郎の注意は、半ば聴衆席の前半の方に走つてゐた。彼は、若い婦人の後姿を、それからそれと一人々々|検《あらた》めた。が、たつた一度、相見た丈《だけ》の女は、後姿に依つては、直ぐそれと分りかねた。
 妹の演奏が終ると、美しい花環が、幾つも幾つも、壇上へ運ばれた。露西亜《ロシア》の少女は、それを一々溢れるやうな感謝で受取ると、子供のやうに欣びながら、ピアノの上へ幾つも/\置き並べた。余り沢山置き並べるので、演奏の邪魔になりさうなので、司会者が周章《あわて》て取り降した。聴衆が、此の少女の無邪気さをどつ[#「どつ」に傍点]と笑つた。信一郎も、少女の美しさと無邪気さとに、引きずられて、つい笑つてしまつた。
 丁度その途端、信一郎の肩を軽く軟打《パット》するものがあつた。彼は駭《おどろ》いて、振り顧つた。そこに微笑する美しき瑠璃子夫人の顔があつた。
「よくいらつしやいましたのね。先刻からお探ししてゐましたのよ。」
 信一郎の言ふべきことを、向うで言ひながら、瑠璃子は、信一郎と並んで其処に空《あ》いてゐた椅子に腰を下した。
「あまりお見えにならないものですから、いらつしやらないのかと思つてゐましたのよ。」
 信一郎の方から、改めて挨拶する機会のないほど、向うは親しく馴々しく、友達か何かのやうに言葉をかけた。
「先日は、何《ど》うも失礼しました。」
 信一郎は、遅ればせに、ドギマギしながら、挨拶した。
「いゝえ! 妾《わたくし》こそ。」
 彼女は、小波《さゞなみ》一つ立たない池の面《おも》か何かのやうに、落着いてゐた。
 丁度、その時に兄のニコライ・セザレウ※[#小書き片仮名ヰ、162−下−3]ッチが壇上に姿を現した。が、瑠璃子夫人は立たうとはしなかつた。
「妾《わたくし》、暫らく茲《こゝ》で聴かせていただきますわ。」
 彼女は、信一郎に云ふともなく独語《ひとりごと》のやうに呟いた。

        三

 丁度その時、兄のセザレウ※[#小書き片仮名ヰ、162−下−8]ッチの奏《ひ》き初めた曲は、ショパンの前奏曲《プレリュウド》だつた。聴衆は、水を打つたやうな静寂《しゞま》の裡に、全身の注意を二つの耳に蒐めてゐた。が、その中で、信一郎の注意|丈《だけ》は、彼の左半身の触覚に、溢れるやうに満ち渡つてゐた。彼の左側には、瑠璃子夫人が、坐つてゐたからである。彼女は、故意にさうしてゐるのかと思はれるほどに、その華奢な身体を、信一郎の方へ寄せかけるやうに、坐つてゐた。
 信一郎は、淡彩に夏草を散らした薄葡萄色の、金紗縮緬の着物の下に、軽く波打つてゐる彼女の肉体の暖かみをさへ、感じ得るやうに思つた。
 彼女は、演奏が初まると、直ぐ独語のやうに、「雨滴《レインドロップス》のプレリュウドですわね。」と、軽く小声で云つた。それは、いかにもショパンの数多い前奏曲の中、『雨滴の前奏曲』として、知られたる傑作だつた。
 彼女は、演奏が進むに連れて、彼女の膝の、夏草模様に、実物剥製の蝶が、群れ飛んでゐる辺《あたり》を、其処に目に見えぬ鍵盤が、あるかのやうに、白い細い指先で、軽くしなやかに、打ち続けてゐるのだつた。而も、それと同時に、彼女の美しい横顔《プロフィイル》は、本当に音楽が解るものゝ感ずる恍惚たる喜悦で輝いてゐるのだつた。其処には日本の普通の女性には見られないやうな、精神的な美しさがあつた。思想的にも、感覚的にも、開発された本当に新しい女性にしか、許されてゐないやうな、神々しい美しさがあつた。
 信一郎は、時々彼女の横顔を、そのくつきり[#「くつきり」に傍点]と通つた襟足を、そつと見詰めずにはゐられないほど、彼女独特の美しさに、心を惹かされずにはゐられなかつた。
 曲が、終りかけると、彼女は何人《なんぴと》よりも、先に慎しい拍手を送つた。
 快い緊張から夢のやうに醒めながら、彼女は信一郎を顧みた。
「妹の方が、技巧は確《たしか》ですけれども、どうも兄の方が、奔放で、自由で、それ丈《だけ》天才的だと思ひますのよ。」
「僕も同感です。」信一郎も、心からさう答へた。
「貴君《あなた》、音楽お好き? ほゝゝゝ、わざ/\来て下さつたのですもの、お好きに定《きま》つてゐますわね。」
 彼女は、二度目に会つたばかりの信一郎に、少しの気兼もないやうに、話した。
「好きです。高等学校にゐたときは、
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