\蜘蛛の糸のやうな、継《つな》ぎであつた。尤も、どんなに細くとも、蜘蛛の糸には、それ相応の粘着力はあるものだが。
 音楽会の期日は、六月の最後の日曜だつた。その日の朝までも、信一郎の心には、妙に躊躇する心持もあつた。お前は、青年に対する責任感からだと、お前の行為を解釈してゐるが、本当は一度言葉を交へた瑠璃子夫人の美貌に惹き付けられてゐるのではないか。彼の心の裡で、反噬《はんぜい》するさうした叫びもあつた。その上、今日までは、かうした会合へ出るときは、屹度《きつと》新婚の静子を伴はないことはなかつた。が、今日は妻を伴ふことは、考へられないことだつた。会場で出来る丈、夫人に接近して夫人を知らうとするためには、妻を同伴することは、足手纏ひだつた。
 昼食を済ましてからも、信一郎は音楽会に行くことを、妻に打ち明けかねた。が、外出をするためには、着替をすることが、必要だつた。
「一寸散歩に。」と云つてブラリと、着流しのまま、外出する訳には行かなかつた。
「一寸音楽会に行つて来るよ。着物を出しておくれ。」
 さうした言葉が、何うしても気軽に出なかつた。それは、何でもない言葉だつた。が、信一郎に取つては、妻に対して吐かねばならぬ最初の冷たい言葉だつた。
「音楽会に行くから、お前も支度をおしなさい。」
 さうした言葉|丈《だけ》しか、聞かなかつた静子には、それが可なり冷たく響くことは、信一郎には余りによく判つてゐた。
 彼は、ぼんやり縁側に立つてゐるかと思ふと、また、何かを思ひ出したやうに二階へ上つた。が、机の前に坐つても、少しも落着かなかつた。彼は、思ひ切つて妻に云ふ積りで、再び階下へ降りて来た。
 が、解《ほど》き物をしながら、階段を降りて来る夫の顔を見ると、心の裡の幸福が、自然と弾み出るやうな微笑を浮べる妻の顔を見ると、手軽に云つて退《の》ける筈の言葉が、またグツと咽喉にからんでしまつた。
「あら! 貴君《あなた》、先刻《さつき》から何をそんなに、ソハソハしていらつしやるの?」
 無邪気な妻は夫の図星を指してしまつた。指さゝれてしまふと、信一郎は却つて落着いた。
「うつかり忘れてゐたのだ。今日は専務が米国へ行くのを送つて行かなければならないのだつた!」
 彼は、咄嗟に今日出発する筈の専務のことを思ひ出したのだ。
「何時の汽車? これから行つても、間に合ふのでございますか?」
 静子は一寸心配さうに云つた。
「間に合ふかも知れない。確か二時に新橋を立つ筈だから。」
 さう云ひながら、信一郎は柱時計を見上げた。それは、一時を廻つたばかりだつた。
「ぢや、早くお支度なさいまし。」解《ほど》き物を、掻きやつて、妻は、甲斐々々しく立ち上つた。
 信一郎は、最初の冷たい言葉を云ふ代りに、最初の嘘を云つてしまつた。その方が、ズツと悪いことだが。

        二

 その日の音楽会は、露西亜のピアニスト若きセザレウ※[#小書き片仮名ヰ、161−上−6]ッチ兄妹の独奏会だつた。
 去年から今年にかけて、故国の動乱を避けて、漂泊《さすらひ》の旅に出た露西亜《ロシア》の音楽家達が、幾人も幾人も東京の楽壇を賑はした。其中には、ピヤノやセロやヴァイオリンの世界的名手さへ交つてゐた。セザレウ※[#小書き片仮名ヰ、161−上−11]ッチ兄妹もやつぱり、漂泊《さすらひ》の旅の寂しさを、背負つてゐる人だつた。殊に、妹のアンナ・セザレウ※[#小書き片仮名ヰ、161−上−13]ッチの何処か東洋的な、日本人向きの美貌が、兄妹の天才的な演奏と共に、楽壇の人気を浚つて[#「浚つて」は底本では「唆つて」]ゐた。その日の演奏は、確か三四回目の演奏会だつた。上流社会の貴夫人達の主催にかゝる、その日の演奏会の純益は、東京にゐる亡命の露人達の窮状を救ふために、投ぜられる筈だつた。
 信一郎が、その日の会場たる上野の精養軒の階上の大広間の入口に立つた時、会場はザツと一杯だつた。が、人数は三百人にも足らなかつただらう。七円と云ふ高い会費が、今日の聴衆を、可なり貴族的に制限してゐた。極楽鳥のやうに着飾つた夫人や令嬢が、ズラリと静粛に並んでゐた。その中に諸所瀟洒なモオニングを着て、楽譜を手に持つてゐる、音楽研究の若殿様と云つたやうな紳士が、二三人宛交じつてゐた。信一郎は聴衆を一瞥した刹那に、直ぐ油に交じつた水のやうな寂しさを感じた。かうした華やかな群《グループ》の中に、女王《クイン》のやうに立ち働いてゐる荘田夫人が、自分に――片隅に小さく控へてゐる自分に、少しでも注意を向けて呉れるかと思ふと、妻の手前を繕ろつてまで、出席した自分が、何だか心細く馬鹿々々しくなつて来た。
 信一郎が、席に着くと間もなく、妹の方のアンナが、華やかな拍手に迎へられて壇上に現はれた、スラヴ美人の典型と云つてもいゝやう
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