の刹那に於て、精神的にも瑠璃子に破られてゐただらうか。
否! 否! 瑠璃子自身の良心が、それを否定してゐる。愈々、死が迫つて来た時の勝平の心は、彼の一生の凡ての罪悪を償ひ得るほどに、美しく輝いて居たではないか。
彼は、自分の容《ゆる》しを瑠璃子に乞うた上、二人の愛児の行末を、瑠璃子に頼んでゐる。彼は名ばかりの妻から、夫として堪へがたき反抗を受けながら、尚彼女に美しき信頼を置かうとしてゐる。
それよりも、もつと瑠璃子の心を穿つたものは、彼が臨終の時に示した子供に対する、綿々たる愛だつた。格闘の相手が――従つて彼の死の原因が――勝彦であることを知りながらも、此の愚なる子の行末を、苦しき臨終の刹那に気遣つてゐる。彼の人間らしい心は、その死床に於て、燦然として輝いたではないか。
彼を敵として結婚し、結婚してからも、彼に心身を許さないことに依つて、彼に悶々の悩みを嘗《な》めさせ、それが半ば偶然であるとは云へ、勝彦を操ることに依つて、畜生道の苦しみを味はせた自分を死の刹那に於て心から信頼してゐる。さうした言葉を聴いたとき、瑠璃子の良心は、可なり深い痛手を負はずにはゐられなかつた。
悪魔だと思つて刺し殺したものは、意外にも人間の相を現してゐる。が、刺し殺した瑠璃子自身は、刺し殺す径路に於て、刺し殺した結果に於て、悪魔に近いものになつてゐる。
自分の一生を犠牲にして、倒したものは、意外にも倒し甲斐のないものだつた。恋人を捨てゝ、処女としての誇を捨てゝ、世の悪評を買ひながら、全力を尽くして、戦つた戦ひは、戦ひ栄《ばえ》のしない無名の戦だつた。
負けた勝平は、負けながら、その死床に人間として救はれてゐる。が、見事に勝つた瑠璃子は、救はれなかつた。
自分の一生を賭してかゝつた仕事が、空虚な幻影であることが、分つた時ほど、人間の心が弛緩し堕落することはない。
彼女の心は、その時以来別人のやうに荒んだ。清浄《しやうじやう》なる処女時代に立ち帰ることは、その肉体は許しても、心が許さなかつた。敵と戦ふために、自分自身心に塗つた毒は、いつの間にか、心の中《うち》深く浸み入つて消えなかつた。
その上に、もつと悪いことには、名ばかりの妻として、擅《ほしいまゝ》にした物質上の栄華が、何時の間にか、彼女の心に魅力を持ち始めてゐた。
彼女は、荒んだ心と、処女としての新鮮さと、未亡人としての妖味とを兼ね備へた美しさと、その美を飾るあらゆる自由とを以て、何時となく、世間のあらゆる男性の間に、孔雀の如く、その双翼を拡げてゐた。
怪頭醜貌の女怪ゴルゴンは、見る人をして悉く石に化せしめたと希臘《ギリシヤ》神話は伝へてゐる。
黒髪皎歯清麗真珠の如く、艶容人魚の如き瑠璃子は、その聡明なる機智と、その奔放自由なる所作とを以て、彼女を見、彼女に近づくものを、果して何物に化せしめるであらうか。
魅惑
一
奇禍のために死んだ青年の手記を見た後も、美しき瑠璃子夫人は、尚信一郎の心に、一つの謎として止まつてゐた。手記に依れば、青年を飜弄し、彼をして、形は奇禍であるが、心持の上では、自殺を遂げしめた彼女なる女性が、瑠璃子夫人であるやうにも思はれた。が、夫人その人は、信一郎の目前で、青年の最後の怨みが籠つてゐる筈の、時計の持主であることを否定してゐた。
信一郎は、夫人の白いしなやかな手で、軽く五里霧中の裡へ、突き放されたやうに思つた。血腥い青木淳の死と、美しい夫人とを、不思議な糸が、結び付けて、その周囲を、神秘な霧が幾重にも閉ざしてゐる。その霧の中に、チラチラと時折、瞥見するものは、半面紫色になつた青年の死顔と、艶然たる微笑を含んだ夫人と皎玉《かうぎよく》の如き美観とであつた。
青年から、瀕死の声で、返すことを頼まれた時計は、――青年の怨みを籠めて、返さなければならぬ時計は、あやふや[#「あやふや」に傍点]な口実のもとに、謎の夫人の手に、手軽に手渡されてゐる。信一郎は、死んだ青年に対する責任感からも、此の謎を一通《ひととほり》は解かねばならぬと思つた。時計が、その真の持主に、青年の望んだ通《とほり》[#ルビの「とほり」は底本では「しほり」]の意味で、返されることの為に、出来る丈《だけ》は尽さねばならぬことを感じた。
が、その謎を解くべき、唯一の手がかりなる時計は、既に夫人の手に渡つてゐる。たゞ、それの受取のやうに、夫人から贈られた慈善音楽会の一葉の入場券が、信一郎の紙入に、何の不思議もなく残つてゐる丈《だけ》である。
が、此の何の奇もない入場券と、『是非お出下さいませ。その節お目にかゝりますから。』と云ふ夫人の言葉とが、今の場合夫人に近づく、従つて夫人の謎を説くべき唯一の心細い頼りない手がかりだつた。夫人と信一郎とを結び付けてゐる細い/
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