を、ボンヤリと凝視してゐる丈であつた。
「あゝ苦しい! 切ない!」
勝平は最後の苦痛に入つたやうに、何物かを掴まうとして、二三度虚空を掴んだ。瑠璃子は、その時始めて心から、夫のために、その白い二つの手を差し延べた。勝平は、瑠璃子の白い腕に触れるとそれを生命《いのち》の最後の力で握りしめながら、また差し延べられた手に、瑠璃子からの宥《ゆるし》を感じながら、妻からの情《なさけ》を感じながら、最後の呼吸《いき》を引き取つてしまつたのである。
七
勝平の最後の息が絶えようとしてゐる時に、医師がやつて来た。レインコートの下へまで、激しい雨が浸み入つたと見え、洋服の所々から、雫がタラ/\と落ちてゐた。
「車で来ようと思つたのですが、家を二間ばかり離れると、直ぐ吹き倒されさうになりましたから、徒歩で来ました。風が北へ廻つたやうですから、もう大丈夫です。まさか、先度のやうなことはありませんでせう。」
医師は、遉《さすが》に職業的な落着を見せながら、女中達の出迎へを受けて、座敷へ通つて来た。
「お電話ぢや十分判りませんでしたが、何《ど》うなさつたのです。強盗と組打ちをなさつたと云ふのは本当ですか。」
医師は、横はつてゐる勝平の傍《そば》近く、膝行《ゐざ》り寄りながら、瑠璃子にさう訊いた。
瑠璃子は、遉《さすが》に落着きを失はなかつた。
「いゝえ! 女中が狼狽《うろた》へて、そんなことを申したのでございませう。強盗などとは嘘でございます。お恥かしいことでございますが、つい息子と……」
さう云つたものの、後は続け得なかつた。医師は直ぐその場の事情を呑み込んだやうに、勝平の身体に手をやつて、一通《ひととほり》検《あらた》めた。
「何処もお負傷《けが》はないのですね。」
「はい! 負傷《けが》はないやうでございます。」瑠璃子は静かに答へた。
「御心配はありません。何処か打ち所が悪くつて気絶をなさつたのです。」
医師は事もなげにさう云ひながら、その夜目にも白い手を脈に触れた。五秒十秒、医師はぢつと耳を傾けてゐた。それと同時に、彼の眸に、勝平の蒼ざめて行く顔色が映つたのだらう。彼は、急に狼狽したやうに前言を打ち消した。
「あゝこりやいけない!」
さう云ひながら、彼は手早く聴診器を、鞄の中から、引きずり出しながら、勝平の肥り切つた胸の中の心臓を、探るやうに、幾度も/\当《あて》がつた。
「あゝこりやいけない!」
彼は再び絶望したやうな声を出した。
「いけませんでございませうか。」
さう訊いた瑠璃子の声にも、深い憂慮《うれひ》が含まれてゐた。
「こりやいけない! 心臓麻痺らしいです。何時か診察したときにも、よく御注意して置いた筈ですが、可なり酷い脂肪心だから、よく御注意なさらないと、直ぐ心臓麻痺を起し易いと、幾度も云つた筈ですが。喧嘩だとか格闘だとか、興奮するやうなことは、一切してはならないと、注意して置いたのですがね。」
医師は、いかにも、自分の与へた注意が守られなかつたのが、遺憾に堪へないやうに、耳は聴診器に当《あて》がひながら、幾度も繰り返した。
「心臓の周囲に、脂肪が溜ると、非常に心臓が弱くなつてしまふのです。火事の時などに、駈け出した丈《だけ》で、倒れてしまふ人があるのです。それに酒を召し上つてゐたのですね。酒を飲んでゐる上に、烈しい格闘をやつちや堪りません。お子さんとなら、また何だつて早くお止めにならなかつたのです。」
さう云はれると、瑠璃子の良心は、グイと何かで突き刺されるやうに感じた。
「もう駄目だとは思ひますが、諦めのために、カンフル注射をやつて見ませう。」
医師は、手早くその用意をしてしまふと、今肉体を去らうとして、たゆたうてゐる魂を、呼び返すために、巧みに注射針を操つて、一筒のカンフルを体内に注いだ。
医師は、注射の反応を待ちながらも、二三度人工呼吸を試みた。が、勝平の身体は、刻一刻、人間特有の温みと生気とを失ひつゝあつた。その巨きい顔に、死相がアリ/\と刻まれてゐた。
「お気の毒ですが、もう何とも仕方がありません。」
医師は、死に対する人間の無力を現すやうに、悄然と最後の宣告を下した。
八
戦は終つた。不意に突然に意外に、敵は今彼女の眼前に、何の力もなく何の意地もなく土塊の如くに横はつてゐる。
彼女は見事に勝つた。勝つたのに違ひなかつた。傲岸な、金の力に依つて、人間の道を蔑《なみ》しようとした相手は倒れてゐる。さうだ! 勝利は明かだ。
が、勝平の死顔をぢつと見詰めてゐる時に、彼女の心に湧いて来たものは、勝の欣びではなくしてむしろ勝の悲しみだつた。勝利の悲哀だつた。確《たしか》に勝つてゐる。が、勝平の肉体に勝つた如く、彼の精神にも勝ち得ただらうか。勝平は、その瀕死
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