郎は、意外なる発見に、狂つたやうに叫び続けた。瑠璃子も思はず、瀕死の勝平の傍を離れると、二人が突つ立ちながら、相対してゐる方へ近づいた。
いかにも、その男は勝彦だつた。何時も見馴れてゐる大島の不断着が、雨でヅブ濡れに濡れてゐる。髪の毛も、雨を浴びて黒く凄く光つてゐる。日頃は、無気味《グロテスク》な顔ではあるが、何となく温和であるのが、今宵は殺気を帯びてゐる。それでも、瑠璃子の顔を見ると、少し顔を赤めながら、ニタリと笑つた。
暫らくの間は、瑠璃子も言葉が出なかつた。が、凡ては明かだつた。東京の家に監禁せられてゐた彼は、瑠璃子を慕ふの余り、監禁を破つて、東京から葉山まで、風雨を衝いて、やつて来たのに違ひなかつた。
「お父様をあんなにしたのは、貴君《あなた》でしたか。」
瑠璃子は、可なり厳粛な態度でさう訊いた。
勝彦は、黙つて肯いた。
「東京から、一人で来たのですか。」
勝彦は黙つて肯いた。
「汽車に乗つたのですか。」
勝彦は、又黙つて肯いた。
「お父様を、何うしてあんなにしたのです。何《ど》うしてあんなにしたのです。」
瑠璃子に、さう問ひ詰められると、勝彦は顔を赤《あから》めながら、モジ/\してゐた。もし勝彦が、聡明な青年であつたならば、簡単に率直に、しかも貴夫人を救つた騎士《ナイト》のやうに勇ましく、
『貴女を救ふために。』と答へ得たのであるが。
六
瑠璃子から、何と訊かれても、勝彦は何とも返事はしないで、たゞニタリ/\と笑ひ続けてゐる丈だつた。
老人の喜太郎は、張り詰めてゐた勇気が、急に抜け出してしまつたやうに云つた。
「仕様のない若旦那だ。こんな晩に東京から、飛び出して来て、旦那をとつちめるなんて、理窟のねえ事をするのだから、始末に了へねえや。奥様! こんな人に介意《かま》つてゐるよりか旦那の容体が大事だ!」
喜太郎は、勝彦を噛んで捨てるやうに非難しながら、座敷の真中に、生死も判らず横はり続けてゐる勝平の方へ行つた。
が、瑠璃子は喜太郎のやうに心から勝彦を、非難する気には、なれなかつた。口では勝彦を咎めるやうなことを云ひながら、心の中では此の勇敢な救ひ主に、一味《いちみ》温かい感謝の心を持たずにはゐられなかつた。
丁度、その時に、勝平のうめき声が、急に高くなつた。瑠璃子は思はず、その方に引き付けられた。
彼の顔面の筋肉が、頻りに痙攣し、太い巨きい四肢は、最後のあり丈《たけ》の力を籠めたやうに、烈しく畳の上にのたうつた。
「水! 水!」
勝平は、苦しさうな呻き声を洩した。
女中が、転がるやうに持つて来た水を、コップのまゝ口へ注がうとしたが、思ひ通《どほり》にはならないらしい口辺の筋肉は、当《あて》がはれたコップの水を、咽喉の辺から胸にかけて滾《こぼ》してしまつた。瑠璃子は、それを見ると、コップの水を一息飲みながら、口移しに勝平の口中へ注いでやつた。名ばかりではあるが、妻としての情であつた。
水に依つて、湿《うるほ》された勝平の咽喉は、初めてハツキリした苦悶の言葉を発した。
「あゝ苦しい。胸が苦しい。切ない。」
彼は、さう叫びながら、心臓の辺《あたり》を幾度も掻きむしつた。
「直ぐ医者が参ります。もう少しの御辛抱です。」
瑠璃子も、オロ/\しながら、さう答へた。瑠璃子の言葉が、耳に通じたのだらう。彼は、空虚《うつろ》な視線を妻の方に差し向けながら、
「瑠璃子さん、俺《わし》が悪かつた。みんな、俺《わし》が悪かつた。許して下さい!」
彼は、身体中に残つた精力を蒐めながら、やつと切々に云つた。つい一時間前の告白を疑つた瑠璃子にも、男子のかうした瀕死の言葉は疑へなかつた。瑠璃子の冷たく閉ぢた心臓にも、それが針のやうに刺し貫いた。
「あゝ苦しい。切ない! 心臓が裂けさうだ!」
勝平は、心臓を両手で抱くやうにしながら、畳の上を、二三回転げ廻つた。
「美奈子! 美奈子はゐないか!」
彼は、突如苦しさうに、半身を起しながら、座敷中を見廻した。併し美奈子が其処にゐる訳はなかつた。二三秒間身体を支へ得た丈で、またどうと後へ倒れた。
「美奈子さんも直ぐ来ます。電話で呼びますから。」
瑠璃子は、耳許に口を寄せながら、さう云つた。
「あゝ苦しい! もういけない! 苦しい! 瑠璃子さん! 頼みます、美奈子と勝彦のこと。貴女は、俺《わし》を憎んでゐても、子供達は憎みはしないでせう。貴女を頼むより外はない! 俺《わし》の罪を許して子供達を見てやつて下さい! 頼みます! 勝彦! 勝彦!」
彼は、さう云ひながら、再び身体を起さうとした。愚かなる子に、最後の言葉をかけようとしたのであらう。が、愚なる子は、父の臨終の苦しみを外《よそ》に、以前のまゝに、ケロリとして立つたまゝ、此場の異常な光景《シーン》
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