て、何とも答へなかつた。たゞ勝平が発してゐるらしい低いうめき声が聞える丈《だけ》だつた。
「旦那! 旦那! しつかりなさい!」
さう云ひながら、喜太郎は暗い座敷の中を、カンテラで照しながら、駈け込んだ。その光で、ほの暗く照し出された大広間の中央に、勝平は仰向に打ち倒れながら、苦しさうにうめいてゐるのだつた。
「旦那! 旦那! しつかりなさい! 喜太郎が参りましたぞ! 泥棒は何うしただ!」
喜太郎は、勝平の耳許で勢よく叫んだ。が、勝平はたゞ低く、喘息病みか何かのやうに咽喉のところで、低くうめく丈《だけ》だつた。
「旦那! 怪我をしたか。何処だ! 何処だ!」
老人は、狼狽しながら、その太い堅い手で、勝平の身体を撫で廻した。が、何処にも傷らしい傷はなかつた。が、それにも拘はらず、半眼に開かれてゐる勝平の眼は、白く釣り上がつてゐる。
「あゝ! こりやいけねえ。奥様、こりやいけねえぞ。」
さう云ひながら、老人は勝平の身体《からだ》を半《なかば》抱き起すやうにした。が、巨きい身体は少しの弾力もなく石の塊か何かのやうに重かつた。
瑠璃子は、遉《さすが》に驚いた。
「もし、貴君! もし貴君! 貴君!」
彼女は、名ばかりの夫の胸に、縋り付くやうにして叫んだ。が、勝平の身体に残つてゐる生気は、かうしてゐる間にも、だん/\消えて行くやうに思はれた。
おづ/\顫へながら、座敷へ近づいて来た女中を顧みながら、瑠璃子はハツキリと少しも取り擾《みだ》さない口調で云つた。
「ブランデーの壜を大急ぎで持つておいで。それから、吉川様へ直ぐお出下さるやうに電話をおかけなさい! 直ぐ! 主人が危篤でございますからと。」
女中の一人は、直ぐブランデーの壜を持つて来た。瑠璃子は、それをコップに酌ぐと、甲斐甲斐しく勝平の口を割つて、口中へ注ぎ入れた。
勝平の蒼ざめてゐた顔が、心持赤く興奮するやうに見えた。彼の釣り上つた眼が、ほんの僅かばかり、人間の眼らしい光を恢復したやうに見えた。
「旦那! 旦那! 相手は何《ど》うしただ。強盗ですか。何方《どちら》へ逃げました。」
老人の別荘番は、主人の敵《かたき》を取りたいやうな意気込で訊いた。
勝平はその大きい声が、消えかゝる聴覚に聞えたのだらう、口をモグ/\させ初めた。
「何でございますか。何でございますか。」
瑠璃子も、勝平を励ますために、さう叫ばずにはゐられなかつた。
その時に、室の薄暗い一隅で、何者とも知れずカラ/\と悪魔の嗤ふやうに声高く笑つた。
五
カンテラの光の届かない部屋の一隅から、急にカラ/\と頓狂に笑ひ出す声を聴くと、元気のある度胸の据つた喜太郎迄が、ハツと色を変へた。村田銃の方へ差し延した左の手が、二三度銃身を掴み損つてゐた。勝気な瑠璃子の襟元をも、気味の悪い冷たさが、ぞつと襲つて来た。
「誰だ! 誰だ!」
喜太郎は狼狽《うろた》へながら、しはがれた声で闇の中の見知らぬ人間を誰何《すゐか》した。が、相手はまだ笑ひ声を収めたまゝ、ぢつとしてゐる。
「誰だ! 誰だ! 黙つてゐると、射ち殺すぞ!」
相手が黙つてゐるので、勢ひを得た喜太郎は、村田銃を取り上げながら、その方へ差し向けた。
暗い片隅に蹲まつてゐる人間の姿が、差し向けられたカンテラの灯で、朧ろげながら判つて来た。
「誰だ! 誰だ! 出て来い! 出て来い! 出て来ないと射つぞ!」
喜太郎は、益々勢を得ながらそれでも飛び込んで行くほどの勇気もないと見えて、間を隔てながら、叫んでゐた。
相手が、割に落着いてゐるところを見ると、それが強盗でないことは、判つてゐた。が、不意に耳を襲つた頓狂な笑ひ声に依つては、それが何人《なんぴと》であるかは、瑠璃子にも判らなかつた。彼女は、ぢつと眸を凝して、それが自分の怖れてゐる如く、恋人の直也ではありはしないかと、闇の中を見詰めて居た。
丁度その時に、喜太郎の大きい怒声に依つて、朧気な意識を恢復したらしい勝平は、低くうめくやうに云つた。
「射つな、射つたらいけないぞ!」
それは、一生懸命な必死な言葉だつた。さう云つてしまふと、勝平はまたグタリと死んだやうになつてしまつた。
主人の言葉を聴くと、喜太郎は何かを悟つたやうに鉄砲を、投げ出すと、ぢり/\と見知らぬ男の方に近づいた。男は、喜太郎が近づくと、だん/\蹲まつたまゝで、身を退《ひ》かしてゐたが、壁の所まで、追ひ詰められると、矢庭に、スツクと立ち上つた。瑠璃子は、また恐ろしい格闘の光景《シーン》を想像した。が、瑠璃子の想像は忽ち裏切られた。
「やあ! 若旦那ぢやねえか!」
喜太郎は、驚駭とも何とも付かない、調子外れの声を出した。
瑠璃子も、その刹那弾かれたやうに立ち上つた。
「奥様! 若旦那だ! 若旦那だ。」
喜太
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